2021年08月9日 |臓器提供とその後
先日、臓器提供について興味を持つきっかけになったと聞き、2017年に放送された、医療ドラマのシーズン3、第6話をみました。(そのドラマを全く見たことがなく、誰が医師で、誰が看護師で、どんな関係性なのかもわからなかった。さすがに主役の俳優さんは知っていた)
よくわからないので、ストーリーを楽しむことはあまりできず、なんとなく見ていた。
17歳の男子高校生は脳死下臓器提供に至る、摘出の手術室のシーンでは、黙とうの後、たくさんのスタッフにかこまれて手術がはじめられた。
「こんな風に、たくさんの人が集まって、摘出するんだな」
私の頭の中には、男子高校生ではなく、夫の摘出手術が浮かんでいた。
「あぁ、こんな風に夫も、胸を切り開かれたのか」と、鼓動している心臓を取り出したのかと、思った。
私がサインした用紙は、これを許可するものなんだな、あらためて、思った。
「6行の生きた証し」と女優さんが提供先の施設と患者さんの年代と性別の書かれた用紙を読み上げ、最後は「きれいごとだよな」と俳優さんがつぶやいた。
見終わってから、気分が悪くなり、横になっていたけれど、どんどん体調が悪化し「何か、調子が悪くなるようなものを食べたかなぁ」と暢気に思っていた。
その日の夜から眠れなくなった。目を閉じると、ドラマの手術室のシーンが頭に浮かんでくる。
夫を失った悲しみや自責の念、そう言った思いを小さくしまっておけるときもあれば、不用意に広がってしまうときもある。そして広がった思いをすぐにまとめられることもあれば、なかなかできずに、飲み込まれてしまうときもある。
このドラマの影響で、大きく私は悲しみと苦しみに飲み込まれてしまった。なかなか精神的な調子を戻すことができなくて、こうして文字にできるようになるまで、時間がかかった。
私の心は傷を抱えていて、ふとしたことで容易に傷は痛み始めてしまう。そして、私は傷つくことに驚いてしまう。いつまでたっても、心は受け入れられないのだろうか。
頭ではわかっていたことでも、目の前に突き付けられると、心は悲鳴を上げる。
いつか、心は悲鳴をあげなくなるのだろうか。夫の死が、悲しくつらく、苦しいものじゃなくなる日がくるのだろうか。いつか、頭が心を守れるように、もっとうまく行動できるようになるんだろうか。
臓器提供に納得していても、夫の意思が明らかであっても、「これでよかった」そう思っていても、臓器提供という決断は、夫の死と共にあり、悲しみと苦しみを伴うのだろうか。
ドナー家族の方たちは、このような気持ちをどうしてみえるのだろう。
今日は、臓器提供の制度についてお話させていただこうと思います。
制度には大きく2つあり、一つは、アメリカ、ドイツ、イギリスのように本人が生前、臓器提供の意思表示をしていた場合、または家族が臓器提供に同意した場合に臓器提供が行われるOPTING INという制度、もう一つは、オーストリアやフランス、スペインなどの本人が生前、臓器提供に反対の意思を残さない限り、臓器提供をするものとみなすOPTING OUTという制度です。
人口の少ない国でもOPTING OUTの制度で取り組む国は、提供数が多くなる傾向があります。
なお、どちらの制度の場合も実際には家族の反対があれば臓器提供は行われません。
(上記、日本臓器移植ネットワークのホームページより抜粋)
先日、委員会にて「OPTING OUTの制度についてどう思うか」質問を受け、返答できませんでしたので、あらためて、お答えさせてただこうと思います。
とっさに「無理でしょ」と思いました。その理由を、明確にまとめることができませんでした。あらためて、じっくりと考えてみますと、不本意に提供してしまう家族が増えると感じました。
その理由として、日本の医療に、指摘される特徴として、医師のパターナリズムと、患者(家族)のお任せ思考があります。患者は自分から説明を求める、質問すると言った行動を必ずしもとらないことがあります、信頼していないと思われるのではないか、怒られるのではないかといった心理があると言われおり、また、素人が玄人(医師)に「おまかせ」することを良しとする文化的背景があります。
「YES」が前提の臓器提供の制度は、「臓器提供しなければならない」という理解となり、「NO」と思っていても、「NO」ということができない可能性があると思うからです。
また、
医療関係者、特に医師と、患者、患者家族のコミュニケーションは特殊です。
まず、知識、社会的地位など、力の不均衡があります。そして、論理的視点、医学的な論点で話す医師と、社会心理的視点、心情、感情的な論点で話す患者、家族とでは、視点が異なる点、そして、危機的状況で最適なコミュニケーションができない不安定な心理状態である点、時間も限られており、場所も制限されています。このような状況で、正しく理解し、納得して同意を得ることは、非常に難しいでしょう。
「臓器提供する機会がある」という選択肢の提示が「家族が拒否したら臓器提供しない」、「家族が提供を拒否したら臓器提供できない」という理解に転じてしまう危険性があると思うからです。
そして、脳死と思われる可能性があると言われるのは、私の場合5日でした。その5日の間に、状況を受け入れ、提供を決断するためには、医療スタッフのきめ細やかな対応が必要不可欠と思います。その対応があるからこそ、最期の時をどう過ごすのかを考えることができ、臓器提供という選択をすることができるのだと思います。
臓器提供ありき、の制度であれば、その終末期の対応を得られず、状況を受け入れることのないまま、医師に言われ、提供に至り、何かなんだかわからないうちに「提供していた」という危険があると思うのです。
臓器提供の決断は、家族がともに過ごした時間、交わした会話、その意思をより合わせて、決定されると私は思います。どちらの制度であっても、家族が望まない限り、提供には至らないのです。しかし、今の文化社会的背景を考えると、私はOPTING OUTの制度は、賛成できないと思うのです。
参考までに、抜粋させていただきました日本臓器移植ネットワークのホームページです
2021年06月19日 |その他
私はこの言葉を聞くたびに、違和感と苛立ちを覚えます。
臓器移植委員会でも、日本臓器移植ネットワークの第三者事業評価委員会でも、
「ドナーが足りない」という意見がきかれます。
ドナーを増やすにはどうしたらいいのかと、議論されます。
私はドナー家族です。ドナーとなるということは死別するということです。
深い混乱の中、「臓器提供」という決断をした悲しみと苦しみを思うと、たくさんの人に家族を失う体験を、ひとりでも多くの人にしてほしいとは、思えないのです。
もちろん、日本でたくさんの人が今、この瞬間もなくなっていますし、
そして、1万5千人もの人が、移植を待っている現状があるのも、事実でしょう。
それでも、私は「ドナーが足りない」その言葉に異議を唱えます。
正しくは「臓器提供をする権利を守る」だと思うからです。
この言葉は、似て非なるものです。
脳死に至る原因は、内因性疾患、外因性疾患、自死自殺と多岐に及びます。
しかし、そのどれもが、急性疾患です。突然で、緊急事態です。
あまりのことに、呆然と立ち尽くし、家族の変わり果てた姿を現実として受け入れることなどできない。
その大切な家族が失われるかもしれない。
その命が消えてしまうかもしれない。
受け入れがたい事実を前に、混乱して、涙も出ない。
もう助からないからこそ、自分たち家族に何ができるのか。
大切な家族と過ごした時間、重ねた会話、それらをより合わせ、最期の時間をどう過ごすのかを決める。
その選択肢の一つに「臓器提供」がある。
それが、「提供する権利」であり、その権利は守られるべきと私は思うのです。
そして、同時に「提供しない権利」も守られるべきです。
そのために、医療がどうあるべきなのか、そのために普及啓発はどのようになされるべきなのか。
そこが、論点だと私は思うのです。
「提供する権利」が守られ、結果としてドナーが増えることもあると思います。
そうすることで、移植を待つ患者さんの命が救われるようになる。
そのための議論だと私は考えています。
移植医療の新参者であり、若輩者であるせいなのでしょうか、
他にもたくさんの違和感を覚えます…。
1999年医療系短大卒業、看護師として総合病院や社会福祉協議会などに勤務しながら、私生活では結婚、二児の母となる。 数年前に夫がドナーとなり、ドナー家族となる。通信制大学に編入し、学びを深め、社会の変化による悲嘆の癒しにくい現状、日本の移植医療、ドナー家族の現状を知り、臓器移植ドナー家族の会の設立に至る。