その後の歩み ③

2021年06月30日ブログ,臓器提供とその後

 

 

休職中の私と、学校の長期欠席が続いていた次男は、二人で過ごすことが多かったので、二人で一緒に食事の支度をしたり、洗濯物を干したりと、家事をすることもあったし、ホットケーキを焼いたり、フルーツサンドを作ったり、おかし作りをしたりもした。また、一緒にゲームをしたり、アニメをみたりした。次男の好きなものを一緒にしたかった。彼がどんなものに興味があって、どんなことを楽しいと思うのか、そして、私自身が一緒に楽しめることを探して、いろいろなことをした。ホットケーキ

そうやって、何気ない会話を増やしていくと、時々、前触れなく「そういえば、この前」というように、ポツポツと自分の思いを話すことがあった。私はその思いを必死に拾い、その言葉に耳を傾けた。何でもないような顔をして、彼の思いを受け止めようとしていた。

「あの時、僕は家に残っていたら、父さんは死ななかったのかな」

「父さんは、僕のこと、どうでもよかったのかな」

そんな言葉をこぼしたことがあった。

時々、チョコが次男にぴったりと寄り添っているとき、『泣いているんだな』と思っていた。私の前では一度も涙を見せることはなかったけれど、きっと次男は、たくさん泣いて、悩み、考えていたのだろう。

彼の悲しみは彼にしか癒すことはできず、私はただ聞くことしかできなくて、彼が自身で立ち上がることを信じることしかできなかった。

 

 

じっと動くことができない私達に寄り添ってくれた人がいる。

中西さんは、週に一度、もしくは二週間に一度、「今日、寄ってもいい?」そんな連絡をくれて、お菓子を持って、夕方ふらりと立ち寄ってくれた。

特別な話をするわけでなく、「今日はいい天気だったね」そんな話をしながら、お菓子をつまんだ。いつもと変わらない彼女が本当にありがたかった。そして、私がポツポツとこぼす、いろいろな思いを丁寧に聞いてくれた。

子供たちに聞かせたくない話は、チョコの散歩に一緒に行き、歩きながら、聞いてくれた。長男のこと、次男のこと、子供たちが学校を休むこと、食事の支度など家事が思うようにできないこと、そんな私を否定せず、「大丈夫」そう言ってくれた。たくさんの話もしたけれど、それ以上に、会いに来てくれることがありがたかったと思う。

 

そして、同僚の山下さんも時折連絡をくれていた。

ある時、食事に誘ってくれ、人通りの多い、駅ビルの中にあるコーヒーショップの前で待ち合わせた。

そこに、同僚の川田さんも来てくれた。彼女は「米ちゃん!」そう言って、泣きながら抱きしめてくれた。(今思えば、泣いているおばさん二人が抱きつくのに不適切な場所)

ずいぶんと心配をかけてしまったと思ったし、そして葬儀にお花をもらったことのお礼をいい、改めて、彼女たちにたくさんの思いをもらっていることに気が付いた。

その時、何を話したのかは覚えていないが、二人から私自身がカウンセリングを受けることを強く勧められた。そして、何か好きなことをするといいよ、とアドバイスをもらう。

彼女たちは、元気で明るく、一緒にいるだけで元気を分けてもらえる。まるでたき火のような人だった。そのそばにいるだけで、身体が温まるように、心がずいぶんと温かくなった。

 

 

それから、長男は無事に高校に合格した。先生の予想通りに、長男は学校を休みがちになり、卒業式を迎えるころには、全く登校できていなかった。

そして、卒業式の前日、クラスメイトが二人、わざわざ自宅まで来てくれた。

「明日、卒業式だから、一緒に行こう。朝、迎えに行くから。一緒に卒業しよう」そう言ってくれた。私も長男も卒業式に出席する予定はしていなかったけれど、彼らのその言葉に、大切なセレモニーであり、彼らにとって中学生最後の日だと気づかされた。

次の日、迎えに来てくれた同級生と長男は学校に行き、私も卒業式に出席した。

お世話になった先生方に挨拶をすることができ、友達と過ごし笑っている長男をみることができて、本当によかったと思った。

 

 

長男は高校へ入学し、新しい生活を始めた。次男も進級し、クラスも変わり、学校へ行ったり、休んだりしていた。

私は休職中だったけれど、復職することができず、退職することを決めた。失業保険の給付を受けながら、新たに就職活動を始めた。

ハローワークに通いながら、何ができるのか、何がしたいのか、何が好きなのか、そんなことを考えていた。ただ、もう、2度と白衣は着ることができないような気がしていた。病棟でまた働く、そんな自分をイメージできなかった。

私のアイデンティティは粉々に崩れて、いくつか失われ、そしていくつか足されて、また新しい私が出来上がるのかもしれない、そんな風に思えるようになるには、もう少し時間がかかった。

 

 

毎日、朝起きて、何とか食事の支度やお弁当の用意、洗濯と掃除などの家事を済ませ、終わっていない事務手続きをして、自宅の片づけと、草引きや掃除といった管理をし、そして、定期的に次男のスクールカウンセラーに通っていた。

また、心療内科を受診し、私自身がカウンセリングに月に一度、通うようになった。

臨床心理士(公認心理士)である、森川先生(仮名)との面談は、一回45分、5500円だった。面談では、毎回、ひどく泣いていた。

「なぜ、死んでしまったのか」「どうすればよかったのか」「もっと優しくしていれば」「もっと、何かできた」そんな思いがあり、そして、私が彼を殺してしまったんだと、彼が死を選ばざるを得ないほど苦しめたのだと、自分自身を強く責めた。

先生は型通りの傾聴をあまりしない人で、よく自分ことも話されていた。週末の出来事や研修の内容、好きなテレビ番組のことなど話したりしていたけれど、それが心地よく感じていた。

 

「私が彼を殺したんだ」という私自身の罪の意識は大きかった。

その思いは、小さく私の中で納まっているときもあれば、大きく私を飲み込んでしまう日もあり、その思いが消えないことに苦しまなくはなっていたけれど、うまく付き合っていくことはできなかった。

 

そのころ、自分の予定の管理がうまくできなかった。カウンセリングの予約を忘れたり、日にちを間違えたり、朝まで覚えていたのに、気が付いたら約束の時間で電話がかかってきて、気が付くようなことが何度もあった。

以前は手帳など持ち歩くことなく、自宅にカレンダーを置いて、そこに予定をかきこんでおけば、自分の予定だけでなく、家族の予定も把握して、管理できていた。

しかし、自分の予定も、家族の予定も、まったく覚えることができず、予定を重ねて入れてしまうことも、何度もあったし、手帳を持ち歩くようにしても、その手帳に書き忘れることもあって、困ることが何度もあった。また、買い忘れ、置き忘れも何度もあり、メモをしても、メモを忘れた。特に数字を覚えられなかった。金額は何度言われても、頭に入ってこなかったし、新しくなった自分の電話番号も覚えられず、電話番号の聞き間違いも多かった。

そして、そのころ、体調が悪いことが多く、ベッドで横になっていることも多かった。頭痛やめまい、倦怠感が強く、子供たちが登校したあと、ずっと寝ていることもあった。また、ひどく眠く何時間も眠ってしまうことも、反対に眠れないこともあった。

 

そんな中、日本臓器移植ネットワークのコーディネーターさんの訪問があった。県内のコーディネーターさんだけでなく、東京から来られた。前回のコーディネーターさんの訪問の際に、ひどく泣いてしまったから、だと思い、申し訳なく思ったことを覚えている。それなのに、その時も泣いてしまった。

心の内を言葉にするとき、どうしても涙がこぼれてしまっていた。どうすることもできなかった。

 

 

事務や家事、スケジュール管理などの日常生活に困難を抱え、気持ちの問題を抱え、体調に問題を抱え、そして、経済的な問題も大きくなってきていた。何か月も収入がなく、貯蓄と遺族年金で生活していたが、日々の生活費、そしてこれから必要になるだろう子供たちの学費の問題、不安は大きくなるばかりだった。

貯金通帳を眺め、ため息をつく。一日も早く就職をし、安定した収入を得なければならないことは十分にわかっていたけれど、自分の体調の問題があり、今ここで無理をして、私が働くことで心身ともに大きく調子を崩すようなことになれば、子供たちと一緒に生活することすら難しくなると思った。また、非常に不安定な子供たちと過ごす時間をもう少し持ちたかった。

 

何もできないまま、私はできることも、やりたいことも、好きなことも見つけられなかった。

 

そんな私を見かねたのか、山下さんと川田さんが日帰りの京都への旅行に誘ってくれた。

駅への集合時間だけ教えてもらい、後は全部お任せだった。彼女たちの後をついて、いろいろな寺社をまわった。たくさんの観光客でにぎわう京都駅、高い天井からこぼれる光、大きな階段。タクシーに乗り込み、三十三間堂へ向かう、煌びやかな観音像が立ち並ぶお堂の中をゆっくりと歩く。「会いたい人に会える」という観音像に、言葉にならない思いを抱きながら、その装飾や表情を見つめた。甘いものを食べ、伏見稲荷大社の人込みにまみれながら、鳥居をくぐり、歩き疲れたという二人と笑い、美味しい食事をした。いつもと変わらない二人が、本当にありがたかった。

 

 

そして、私のもとに一通の手紙が届いた。

夫の一部を受け取った方からのサンクスレターだった。

可愛らしいレターセットに几帳面な文字が並んでいた。その人の生活、できるようになったこと、そして、彼の一部をとても大切にしていることなどがつづられていた。

私はその内容以上に、その人の人生の熱のようなものを感じ、「あぁ、今もどこかで彼の一部は生きているんだ」そう感じた。

私の中の臓器提供という物語は、あの日、ヘリコプターで見送った時にすでに終わったモノだった。しかし、そうではなかった。

そのサンクスレターは、おとぎ話の「シンデレラ」からの手紙のようだった。王子様と結婚し、末永く幸せに暮らしましたと、エンディングを迎えたシンデレラが「王子様は忙しくて、さみしいです」とお手紙をくれるような。

そうか、いまでも、物語は続いているんだ。そう思えた。

今も、この瞬間も、誰かの中で彼の一部は生きている。

そう感じた時、私の中で、その人の幸せを祈ることができるようになり、そして、それは癒しであり、救いでもあった。

夫の死は、悲しく、苦しく、でもそれだけではないんだ。

そう思えた。

 

チョコの散歩のとき、足元に小さな花が咲いているのを見つけ、視線をあげると庭木の花を見つけ、そして空を見上げると、山の稜線に消えていったヘリコプターを思い出す。

そして、彼の一部を受け取った人と、その家族の幸せを祈ることができる。

それは、私にとって、癒しであり、救いだった。

 

しかしながら、私の思いは、その空のようにいつも同じではなく、サンクスレターを読んで、彼の死を改めて、実感することもまた、事実だった。

彼の一部を受け取って、できるようになったこと、それは私達家族が、どんなに望んでもできないことで、失ったものを改めて、見つめることは、やはり悲しいものだった。

 

いつも、手紙を読むときには、涙がこぼれる。

そして、しばらく体調を崩してしまう。

それでも、その手紙が彼の死が苦しいものだけではないこと教えてくれるのは事実だった。

 

 

そして、ある時ショッピングモールの書店で御朱印の書籍を見つけ、手に取った。そして、その書籍を購入し、読んでみて、寺社に「行ってみたいな」そう思えた。

日帰りで行けそうなところに、出かけていくことができるようになった。

 

歴史ある寺社にひとりで足を運んだ。歴史的な建造物を眺め、静かな境内で木々が風に揺れるのを、ぼんやりと眺めて、その場に流れる雰囲気を感じていた。長い歴史の中、たくさんの人の想いが重なり、変わることなく、その場にあり続けたのだろうかと、想いをめぐらせることが楽しかった。

寺社で過ごす時間は冷えた体をたき火で温めるような、気力を分けてもらえるような、私の中の何かに力がそそがれるような気がした。御朱印帳

 

好きなことを見つけて、やりたいことを見つける。

それが、少しづつできるようになっていた。

 

書籍で読んだのか、誰かに聞いたのか、よく覚えていないけれど、

「しおれた草木が、光と水を得ることで、ゆっくりと立ち上がるように、人も元気になることができる」そんな言葉を思い出した。

私自身も、そして子供たちも、ゆっくりと元気になる。

そう思えた。

 

 

その後の歩み ②

2021年06月27日臓器提供とその後

 

 

夫の死後、いろんなものを手放さなければならなかったけれど、最初に手放したものは、バイクだった。

彼が通勤に使用してたバイクは私が乗るには大きすぎて、持て余すことは目に見えていた。自動二輪の免許をもっているけれど、注意力も集中力もない私が、調子が悪くならないように時々乗るということもできなかった。

このバイクに乗る夫を見送り、出迎え、後ろに乗って出かけた、いろいろな思いの詰まったものを手放すことは本当につらかった。彼がもう帰ってこないことも、彼がもう二度と乗らないことも、わかっていても、手放すことがつらかった。バイクが動かなくなることも、つらかった。

このバイクをみることも、動かなせないことも、調子が悪くなっていくことも、全てが苦しく、私はこのバイクを売った。他の人に乗ってもらい、バイクとして楽しんでもらったほうがずっといい、そう思った。

引き取られていく車両を、見送りながら泣いてしまう私に、業者さんはきっと困惑したと思う。

 

 

そのころ、長男は毎日、毎日登校し続けたけれど、次男は欠席が続いていた。一度登校したけれど、それきり行かなくなってしまった。

これはずいぶんと後になって、次男が話していたことだが、「お前の家にパトカーと救急車が来てたけど、何があったの?」同じクラスの生徒だけでなく、学年の違う生徒からも聞かれて、つらかったと。何と答えていいのかわからなかったし、家が遠い生徒からも聞かれ、どうして知っているのかと思い、とても嫌だったと話していた。学校の生徒にしてみれば、悪意などなく、純粋に疑問に思ったことを本人に聞いたのだと思う。

ただ、それに答えることがその時の次男にはできず、傷ついてしまったのだろう。

 

登校できない次男に声をかけたり、学校に行かせたりと、私が親として果たすべきことがあったと思う。しかし、私自身も自分の気持ちを持て余し、食事の支度や洗濯、掃除といった家事をこなすことがせいいっぱいで、行けないこともあるかな、また行けるようになるかなと、あまり考えることができずにいた。でもどこかで何の根拠もなく、次男は大丈夫と信じていた。ただ、朝起きて夜に眠ること、食事を三度取ること、チョコの散歩に行くこと、そして、スクールカウンセラーと面談することをしてほしいと伝えた。

スクールカウンセラーは週に一度、中学校に来校している、臨床心理士で、私自身もカウンセラーと面談をした。次男は次男だけで、私は私だけで面談をしていた。

 

私はかつて、傾聴ボランティアの勉強会に参加かせてもらっていたことがあり、その時の臨床心理士の先生から傾聴についての研修を受け、傾聴の難しさ、そして語ることの重要性を学んだ。

今の次男にできることが何かあるなら、そしてそれを提示できるなら、何でもしたかったし、私と次男を助けてくれる人は一人でも多いほうがいいと思っていた。そのため、次男は月に何度か学校へ行き、カウンセラーと面談をしていた。

その後、継続的に次男はカウンセリングを受け、それは私自身の安心感につながっていたと思う。

 

 

四十九日の法要が終わる前、長男の高校入試の日を迎えた。その三日前に受験科目が五教科ではなく三教科だと知ったらしく、勉強しなくてよかったみたい、と言い、いつもと変わらない様子で出かけて行った。

 

そして、受験を終えた次の日に、担任の先生から連絡があり、学年主任の先生と二人で、話があるといって自宅にみえた。「明日から、無理はしなくてもいいけど、頑張って学校においで」と。

先生は学校での長男の様子から、精神的な限界が近いことを心配されていた。そのため受験の後、登校が難しくなると思っていると。そして「先生たちは今、事情を知っていて、すごく頑張っていることをわかっているけれど、クラスのみんなはそうじゃない。受験を終えて、登校しなくなると、高校が決まったから来なくなったと思うだろう。それはもったいないから。大事な仲間だから、クラスのみんなが受験を頑張っているのを応援してあげよう。いてくれるだけでいいから」そう言ってくれた。先生の気づかいに、泣いてしまった。

(その後、担任の先生は定年退職され、現場を離れられたが、長男の高校の卒業に合わせ、長男と私に手紙をくれた。中学卒業後も、長男を思ってくれていたこと、そして私自身のことも案じてくれていたことが、本当にありがたかった。)

 

四十九日の法要に出かけた。義母さんと義父さんは参列を希望されず、私自身も親族の参列を希望しなかった。また、長男は参列せず学校へ行ったので、次男と二人きりで法要を済ませた。本来であれば、自宅にて法要をするけれど、お寺での法要をお願いした。ガランとした広いお堂の中、静かに読経だけが聞こえた。

葬儀会社の人が作ってくれた大きな遺影は、どうしてか夫に思えなかった。この人は誰なんだろうと祭壇に手を合わせながら、いつも思っていた。私の知っている夫に似ても似つかないその写真をその時に、お寺に無理を言って引き取ってもらった。

四十九日を済ませてから、祭壇も葬儀会社に引き取ってもらった。大きな仏壇も位牌も過去帳も作らず、彼に手を合わせる場所があれば、それでいいと思った。自分の気に入った仏具を買い、チェストの上に並べて、そして、小さな写真立てに彼が笑っている写真を入れた。

人が見れば笑われてしまうくらい、小さな祭壇だったけれど、私には十分と思った。

 

 

 

このころ、私の記憶はひどくあいまいで、何をしていたのか、はっきりとしない。

仕事は有給休暇を消費した後、復職できず、休職となった。

仕事に行かず、事務処理をしていたことは覚えている。平時であれば事務手続きは、さほど苦手なことではないけれど、その時はうまくできなかった。そのため、何度も、住民票を取りに役所に出かけたり、戸籍謄本を取りにでかけたりしていた。同時に進めて、まとめてもらいに行くというようなことが、全くできなかった。必要な書類の記載すべき項目が足りない、部数が足りないなど、細かな失敗も多かった。

不動産の手続きは、初めてのことで、必要な書類を集めることも大変だった。聞いたことのない書類を取り寄せ、その方法すらわからなかった。ひとつひとつ調べながら、電話で聞きながら、少しづつ進めた。

 

諸手続きの中で、特に困ったのは携帯電話だった。

携帯電話はとある格安スマホを利用していた。その格安スマホはショッピングモールなどいろんなところに窓口があるけれど、新規契約に関することのみを業務としており、名義変更や解約の手続きはすべて電話と郵送で行っているとのことだった。そして、一番驚いたのは死亡であっても名義変更はできず、ナンバーポータビリティーも本人以外ではできないとのことだった。そのため解約するしかなかったが、契約違反になるため、高額な違反金(7万円以上 したと記憶している)を請求された。また、郵送での解約となるので、記入後返送し、会社に書類が届き、手続きが完了次第、利用中止となる。そのため、日時の指定もできず、電波が入らなり、使用できなくなった日が解約の日ということだった。

仕方がないので、新たに携帯電話を別の会社で契約し、長期間使用していた電話番号を変更することとなった。携帯電話の番号の変更を伝えることが、必要最小限の人にしかできなくて、きっと急に連絡がつかなくなったと思っている人もいたと思う。

次男の携帯電話は、別の格安スマホで、名義の変更が可能であった。提出書類が死亡診断書(コピー不可)、もしくは戸籍謄本であり(コピー不可)、私は戸籍謄本を用意した。

 

夫の携帯電話は、ロックの設定が解除してあった。これは私が触ることを想定していたからと思う。その携帯を触っているとき、私は彼の未送信メールに私への「遺書」を見つけた。

その遺書を読んで、彼が私を理由に自ら命を絶ったことを痛感した。

『俺おらん方が順は嬉しいよね
俺おらん方が順は楽やんね
俺おらん方が順は気苦労ないよね
俺おらん方が順はしんどくないよね
俺おらん方が順は幸せになれるよね
俺おらん方が順は言い出す必要ないよね
俺おらん方が順は新しい人生歩めるよね
俺おらん方が順はメリットいっぱいあるね
順はきっとこれからの3人の生活を前向きに考えて進んでるんやろね
俺は毎日毎日今までの事を後悔し死ぬ事ばかり考えてて前なんて向いてない
3人のなかに俺の居場所はなさそうですね
俺には行くとこも、やりたい事もなくなりました
伝えたい事はいっぱいあるけど、きっと伝えない方がいいんやろね
生きる為に、3人の為に色々考えたけど、やっぱりダメです
もう、死ぬ時期と方法しか考えられないです』

私は彼を殺したという罪を、一生、胸に抱えて生きていくと思った。

 

 

 

銀行の手続きの時だった。行員の女性に教えてもらいながら、たくさんある書類の記入をしていた時、その時の行員さんは20代半ばくらいだろうか、私に「ご主人はどうして亡くなられたのですか?」そう聞いた。本当にわからないんだろう、想像もできないんだろう、純粋に知りたかったのだと思う。私は何も言えなかった。手を止めて、にこりと笑うしかできなかった。

「自殺で亡くなりました」そう言葉にすれば、きっと彼女はひどく驚いて、そう聞いたことを後悔して、傷ついてしまうと思った。この話を上司か同僚にすれば、きっと教えてもらえるだろう。それでいいと思った。

病気や事故なら、こんな思いをしなかったのだろうか。そう思うと、苦しかった。

 

 

事務処理以外は、何をしていたのだろうか。よくわからない。

おそらくこのころに、臓器移植ネットワークのコーディネーターさんが病状の報告に見えたと思う。そして厚生労働大臣からの賞状とお花をいただいた。いろいろな話をしたと思うけれど、何を話したのかは、全く覚えていない。ただ、泣いて泣いて、本当にひどく泣いてしまったことは覚えている。

 

私は苦しくて、悲しくて、本当に毎日、涙がこぼれてしまっていたと思う。私が泣くたびに、チョコが「やれやれ、また泣いているの」というようにそばに来て、そして、私の腕や足にそっとあごを乗せ、そばにいてくれていた。

チョコの散歩で、道をあるいているとき、聞き覚えがあるバイクのエンジン音が聞こえた。チョコも足を止め、私を見上げた。そのエンジン音は、もしかしたら同じ車種のバイクのエンジン音なのかもしれない。けれども、当然夫が乗っているバイクではない。私はその場にうずくまって、泣いてしまった。

 

毎日、些細なことで彼を思い出し、涙をこぼしてしまって、その悲しみと苦しみに、飲み込まれ、息ができないように感じていた。いったいいつになったら、この気持ちを整理することができるのだろうか、この気持ちが消えて楽に息ができるようになるのかと思っていた。

1か月、2か月と月日が経っても、この気持ちが楽になっている感じが全くしなかった。

 

このころに何冊か本を購入している。

もともと、私の趣味は読書なので、本をよく読んでいた。しかし、図書館を利用することがほとんどで、自分で書籍を購入することはあまりない。

その時に購入した書籍は

「よく生きよく笑いよき死と出会う」アルフォンス・デーケン

「<突然の死>とグリーフケア」アルフォンス・デーケン、柳田邦男編

「語りきれないこと‐危機と痛みの哲学」鷲田清一著

(看護師が過ぎるラインナップではあるけれど)いくつかの付箋が張ってあり、ところどころにマーカーを引いている。読んで引いた記憶はない。

「死別という傷は手足を失って肢体不自由になることに近い。新しい状況に再適応していくこと」あった。この言葉はしっくりと私に入ってきたことは覚えている。

この痛みや苦しみ、悲しみは決して癒えず、この痛みに再適応していくことしかできない。痛みや苦しみ、悲しみはずっと私と共にあるのだと、思えるようになり、痛みや苦しみを受け入れることができたように思う。

苦しいことに苦しまなくなったことで、少し楽になったことは覚えている。

 

このころだったと思う。

ある人に会った時「ご主人のこと愛してなかったのね」というようなことを言われた。言葉の意味が理解できなかった。「は?」とか「え?」とか答えたように記憶しているけれど、はっきりしない。

そのあと、その言葉の意味を考えてみた。私は悲しみと苦しみに飲み込まれているけれども、どこかに出かけるときは、きちんと身支度を整え、それなりに笑顔を浮かべている。泣きはらした顔でしょんぼりとしているわけではないし、冗談だって言うし、もちろん楽しい気持ちになれば、笑う。きっとその人は私が嘆き悲しんでいることを想像していたんだと思う。だから、想像しているよりも元気そうだったから、「愛してなかったのね」という言葉になったのだろう。

その時、「愛するとは何だろう」そう思った。

私は夫を大切に思っていたし、笑ってほしいと思っていた。彼の期待に応えたいと思っていたし、幸せと思ってほしいと思っていた。きっと、夫も同じだったと思う。私は何を間違えたのだろう。私は何ができたのだろう。どんなに考えても、わからなかった。

どのような行動、どのような感情を「愛すること」というのだろう。私にはわからなかった。

 

 

 

臓器提供を決断した時の話 ④ と その後の歩み ①

2021年06月23日ブログ,臓器提供とその後

入院10日目、摘出手術の日、4時半に病院に到着したけれど、あまりに私の顔色が悪かったようで、前田師長に何か飲んでくるように言われてしまう。その後ベッドサイドで過ごす。

ベッドにもたれてうとうとした。彼の横で眠ることも、もう最後なんだなと思った。

手術室に入室のため、ガラガラとベッドが移送され、その横をついて歩いていく。

「では、ここで」

手術室の前で、そう声をかけられ、ベッドが止まる。医療スタッフが私を見つめ、なんらかの言葉をかけることを求められていると思ったけれど、たくさんの人の前でなんと声をかけていいのかわからなかった。手をにぎって、「いってらっしゃい」とだけ言った。

小さな部屋に簡易ベッドが用意されていた。そこで少し横になって休むと、起きた時はすっきりしていた。

移植コーディネーターさんが来る。このとき、心臓、肺、肝臓、膵臓と腎臓、そして、もうひとつの腎臓の提供先を教えてもらった。

 

7時45分、前田師長と一緒にヘリコプターで運ばれる臓器を見送るため、病院の駐車場に行った。キラキラと小さな光の粒がヘリの風に巻き上げられるようにきらめいていた。抜けるような青い空、赤と白のヘリコプター、そして、光の粒。それはまるで、ヘリコプターと、その中の彼の心臓を守るように舞い上がり、漂っていた。それは、この臓器移植にかかわる人たちの想いなのかもしれないなそんなことを思っていた。

ヘリコプターはゆっくりと浮上し、私の頭上を旋回して、山の稜線へと消えていった。

 

11時に手術が終わり、看護師さんと、師長さんと私とでエンゼルケアに入る。エンゼルケアは今までに何度も経験のある慣れた処置のひとつで、洗髪をして、化粧をして、制服を着せていく。この時、なんともいえない達成感で少々高ぶっていた。

たくさんの人に見送られて退院する。彼の乗った葬儀会社の車が出発するとき、そっと目を閉じて、深く頭を下げる。顔をあげて、振り返り、医師や看護師、たくさんのスタッフにもう一度、深く頭を下げる。「ありがとうございました。お世話になりました」言葉にすると、思いがあふれてしまい、涙が止まらなくなった。前田師長が私の肩を抱いてくれて、思わずしがみついて泣いてしまった。

 

 

臓器提供という一つの経験を語るのであれば、ここで終わるのだろう。

しかし、これは私達家族の「臓器提供を決断した時の話」と「その後の歩み」であるので、

ここで区切ることなく、このまま「その後の歩み」を続けていこうと思う。

実際に私は、このまま歩き続けたのだから。

 

 

 

葬儀の準備のため、斎場に向かう。

死亡診断書はその後の様々な手続きで必要になるから、何枚がコピーをとっておくように言われていて、私は通りかかったコンビニエンスストアでコピーをとった。その時、私は半分に折って、右側だけをコピーした。そして、車に乗り、しばらく運転していたが、「あっ、半分じゃダメだわ」と気が付いて、また通りかかったコンビニエンスストアで左側のコピーをとった。あまりに看護師すぎる習慣で、少し笑ってしまった。(入院中の患者さんがなくなると主治医が死亡診断書の右側を記入するため、その部分のコピーをカルテと共に残す)きっと、看護師としての私が、その時の私を動かしていたのだろう。

 

すでに夫は葬儀場に到着していて、眠るようにそこにいた。

入院中は家にいても、病室にいても、心臓の鼓動が止まってしまうのではないか、臓器提供の意思を貫くことができないのではないか、という不安に駆られていた。臓器の摘出を終え、彼が死んだことで、私はその不安に駆られることはなくなり、何とも言えない安堵のようなものを感じていた。でもどこか実感がなく、夢うつつで、悲しさはなかったように思う。

看護師という職業柄、たくさんの人を見送ってきた。自分でも不思議な感覚で、うまく言葉にはできないけれど、その人の命の灯が消えた時、『からっぽ』になったと感じる。脳死判定、死亡宣告を受けた時、『からっぽ』とは感じなかったけれど、摘出手術を終えた時に『からっぽ』になったと感じた。

棺に入れられて、静かに横たわる夫は、確かに『からっぽ』で、もうここにはいないんだな、『死んだ』んだなと思った。

脳死が人の死なのか、命が終わるのはいつなのか、命は誰のものなのか。その答えは今もわからない。

(今、脳死判定の時の、あの状態の「死亡宣告」が「死」と理解できても、感情的に受け入れられないことを主治医が指摘していたことがよくわかる。)

 

 

そんなことをぼんやりと思いながら、明日の通夜や葬儀のこと、葬儀の人と細かなことを決めていく。その時も目の前にあるやらなくてはならないことをただ、こなしていた。

 

通夜の日、どんなに探しても、数珠を見つけることができず、朝早くから、慌てて近くのショッピングモールに買いに行った。斎場でやらなくてはならないことがたくさんあったが、親族に任せて、私は学校に向かった。

その日は、長男の三者懇談会の日だった。

別日に変更してもらうことを希望したが、長男が「母さんが来ないなら、一人でいい」と頑なに拒み、予定通りとなった。

その懇談会では、私立高校の志望校を決定し、受験のための願書を記入することになっていた。長男の志望校は公立高校であったが、懇談の中で担任の先生から「現在の精神的な負担はかなり大きいと思います。今から公立高校の受験まで数か月、どんな生徒でも精神的に追い込まれていくものであり、厳しいものがあると思います。私立高校への専願受験に切り替えましょう」そう提案された。長男は拒否することなく、それでいいと進路変更をした。そして、願書を記入した。

いつのことはよく覚えていないけれど、その時の長男の担任の先生に「お母さん、自分を責めないで」そう言われて、職員室の前で泣き崩れてしまい、先生が私の肩をしっかりと握っていたことを覚えている。その時の担任の先生には、その後も長男を気遣ってもらい、ありがたかった。

 

私は、喪服を用意して、再度、葬儀場に向かった。久しぶりに袖を通した喪服は、20代の頃に購入したもので丈が短く、今の私が着るには、少し抵抗のあるものだった。鏡に映る私は、ひどく疲れた顔をしていて、髪も乱れていて、なんとも言えない気持ちになった。

長男は葬儀場には行かず、次男はすでに親族とともに葬儀場に行っていた。その後、様々なことを決めていき、通夜となった。

夫の職場の人の参列はお断りし、私と夫の親族が集まり、家族葬で執り行う。

 

次の日、葬儀当日、

長男は登校してしまい、次男は私と共に葬儀場に向かう。

長男は通夜にも参列しなかった、病院へもほとんど行かなかった。そして、葬儀にも参列しなかった。長男を引きずって連れていくことはできず、これでいいのか、どうしたらいいのか、どんなに考えてもわからなかった。長男が何を思っているのか、これから、父親の自死がどんな影響を与えるのか不安で仕方なかった。

その時、私は18歳以下で親が自殺した場合、その子供の自殺の危険性が大きなることを何かで読んで知っていた。ただ、本当に怖くて、不安で、どうしたらいいのかわからなかった。

 

葬儀は滞りなく進み、荼毘に付された彼の真っ白な骨は驚くほど熱く、軽く、カラカラと骨壺に入れた。小さく軽い骨壺を手にしていても、全く現実味がなくて、言われるままに進めていった。親族を見送り、すべて済ませて帰宅した。

その日の夜、長男に何をしていたのか、聞いてみると、「河原に行っていた」と言う。

自宅から歩いて行ける河原は、チョコの散歩道だ。そしてその道は、私達家族が何度も何度も、一緒に歩いた道だ。長男が何を思い、その道を歩き、その河原に行ったのか、そしてそこで何を思ったのか、想像することはできなかったけれど、彼は彼なりの方法で父親とお別れをしたように感じた。長男には長男の悲しみがあり、そしてその感じ方、癒し方、それは誰に強要されるものではないのだろう。彼の歩く悲嘆の道を代わることも、導くこともできない、ただ彼が歩いていくことを見ているしかないと思った。

 

葬儀を終えたが、仕事をすることができず、有給休暇を消費することとなった。精神的にも身体的にも復職はむずかしかった。

 

私は葬儀屋さんにもらった「葬儀後の諸手続きについて」というチェックリストに沿って、事務的な処理を進めていった。国民年金、厚生年金、健康保険、生命保険の手続き、そして電気や水道などの名義変更、銀行やクレジットカードの手続き、不動産の名義の変更、自動車の名義など、何からしていいのかわからないくらい、たくさんあった。

 

また、小さなアパートでは、ペットの飼育ができなかったため、自宅とアパートを毎日何度も往復していた。生活に必要なものはアパートにあったので、それを少しずつ自宅に戻していたけれど、思うように進まなかった。

家の中は、リビングにも、キッチンにも廊下にも、その家のすべてに夫と過ごした日々がよみがえり、苦しくなり泣いてしまっていた。なんでもないようにして生活することがどうしてもできなかった。

私は、自宅に戻ることをあきらめ、アパートを引き払い、チョコと住むことができるところにあらたに住まいを移すことを決めた。とにかく、落ち着いて暮らすことができなければ、精神的な回復も、身体的な回復も難しいと考え、経済的な余裕はなかったけれど、やるしかないと思った。

すぐに不動産会社へ行き、新しい住まいを探し、契約を済ませ、3日後に、アパートの荷物と、とりあえず生活できるだけの、最小限の荷物と共に転居した。精神的にも、身体的にも回復した後、自宅に戻ろう、そう思っていた。

 

病院から、入院費の請求が届いた。夜間の緊急入院、10日間に及ぶICUでの人工呼吸器管理、数々の検査と、その金額は100万円を超えるのではないかと思っていたが、そこまで高額ではなかった。(80万円ほどだったと記憶している)申請していた制度を利用して支払いをする。

その時、病院のICUに立ち寄った。ちょうど、面会時間内であったし、前田師長も勤務していた。入院中にお世話になった感謝と、無事に葬儀をすませたことを報告し、そして、臓器提供に至ることができたのは、たくさんの人が尽力された結果であると思っていることを手紙にして渡した。前田師長さんの顔を見ると、やっぱり泣いてしまった。

 

 

そして、夫は公務員であるため、勤務中に使用していた備品や衣類、制服や作業着を返却しなくてはならなかった。何が支給された衣類で何が彼自身の衣類なのか判断に迷うものもたくさんあったが、全部まとめて持っていくことにした。

大きな衣装ケースに2つ、様々なものを詰め込んだ。そのケースを車に積み込んで、勤務先に向かうとき、いつもはおとなしくしているチョコが、どうしても車に乗るといって、離れなかった。仕方がないので、チョコを一緒に乗せて、家を出た。

チョコにも何か思うことがあるのだろうか。

チョコは8歳のボーダーコリーだ。近所のペットショップで生後4か月のチョコに夫が一目ぼれをして、連れて帰ってきた。相思相愛という言葉がぴったりなくらいに、夫はチョコを可愛がっていたし、チョコも夫に懐いていた。私が帰宅したときは、チョコはソファの上に寝転がったまま、ちらっと私を見るだけだけれど、夫が帰宅するときには、誰よりも早く、バイクのエンジン音に気が付いて、玄関で待っていた。毎日の散歩とブラッシングを欠かさず、いつも夫と一緒に眠り、洗面所にも、トイレにもついていく。夫の指示には、間違いなく応えて、言葉が通じているのではないかと思うこともあった。

チョコとの散歩は、私達家族にとって、とても重要な時間だった。私と長男と、次男と、夫と、家族それぞれがともに過ごす時間をチョコが作ったと思う。散歩しながら、長男や次男とたくさん話をしたし、話はしなくても同じ時間を過ごすことができた。

そして、チョコの散歩は私と夫との時間も作った。その日にあった何気ないこと、取り留めのない話、ふっと頭に浮かんだこと、たくさんの会話をチョコとの散歩道で交わした。

チョコは犬だけれど、私達の大切な家族だ。きっとチョコも夫がいないことに戸惑っていただろうし、悲しかったと思う。でもいつでも、変わらずに私達家族に寄り添って、癒してくれていた。チョコは、私達家族に寄り添うために、神様から遣わされたのではないかと思うくらいに、大切な存在で、チョコがいなければ、今の私達は存在しないとはっきりと言える。本当に驚くほど賢く、そして優しいワンコだった。私はチョコのことが大好きだったし、今でも大好きだ(きっとチョコは私のことをそんなに好きじゃない)すでに夫のところに旅立ってしまったけれど、チョコに出会えたこと、そしてともに暮らせたことを心から感謝している。

 

 

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くすのきの会 代表米山 順子

くすのきの会 代表
米山 順子

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1999年医療系短大卒業、看護師として総合病院や社会福祉協議会などに勤務しながら、私生活では結婚、二児の母となる。 数年前に夫がドナーとなり、ドナー家族となる。通信制大学に編入し、学びを深め、社会の変化による悲嘆の癒しにくい現状、日本の移植医療、ドナー家族の現状を知り、臓器移植ドナー家族の会の設立に至る。

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