その他

急性期終末期の家族ケアの重要性

2023年08月29日その他,ブログ

今日も思うことをつづっていこうと思います。

移植医療において、脳死下臓器提供を増やそうという潮流が主流であるのは、ご存じのことと思います。その潮流の中で、私は急性期終末期の家族ケアの重要性を訴えています。私の訴えには臓器提供の数を増やすという視点はありません。そのため、論点がずれているように思われる方もいるのではないかと感じました。委員会における議論の場は、話題がとても早く流れているので、長々と説明している余裕も時間もなく、自分の意見を端的に述べているので、理解されないのかと思い、今日はそのことについて少しつづってみます。

 

世論調査で約4割の人が、自分が脳死となったときに臓器提供をしてもいいと答えているという結果が出ています。

「臓器提供の意思がある」それはその人の権利であり、それは守られるべきなんだという論があります。

私自身、そのように考えていたこともあります。しかし、いろんなことを学び考え、そして、ドナー家族の声を聞き、この考えに私は違和感を覚えるようになりました。

この論は、現実の臓器提供の現場における、実際のあり様とずれているように感じます。

脳死下臓器提供は、本人の書面による意思表示があっても、家族の同意がなければ提供されません。また2009年の法改正によって、本人の意思が不明であっても、家族の同意があれば、提供が可能となりました。つまりは、本人の意思があっても、なくても、家族の意思によって、臓器提供がなされるか否か、決まるということです。

少し想像してみてください。

もし、あなたが交通事故などによって、脳死と思われる状態となったとき、もう意識の回復の見込みはないと、遠からず、心臓が止まってしまうと言われたとき、あなたはあなたの臓器を提供しますか?

もう一つ、想像してみてください。

あなたのかけがえのない人が交通事故などによって、脳死と思われる状態となったとき、もう意識の回復の見込みはないと、遠からず、心臓が止まってしまうと言われたとき、あなたはあなたのかけがえのない人の臓器を提供しますか?

このように表現するほうが、臓器提供にかかわる家族の心情をリアルに伝えられるように思います。

 

脳死に至る疾患は多岐にわたり、そのどれもが、突発的な疾患であることがほとんどです。

ある日突然に、今朝まで元気な姿で笑っていた、何も変わらない姿で出かけていった、かけがえのない人。

その変わり果てた姿を前に呆然と立ち尽くす。

受け止めきれない現実を前にして、医師の言葉を理解することなどできるはずもなく、言われるままに、書類の記入、物品準備。

かけがえのない人の握りかえすことのない温かな手に触れ、ゆっくりと上下する胸、静かに閉じられた眼、赤みのさした頬を見つめ、ただ、傍らで奇跡を祈る。

その温かな手を離すことが出来るのでしょうか?

 

臓器提供の決断というリアルは、このようにして現れるのです。

世論調査の「あなたは臓器提供してもいいと思いますか?」という質問が、ひどく見当違いだと私は感じるのです。

 

もう、命が助からない。

私たち家族の願いは、元気になって一緒に家に帰りたいという願いは、叶わない。

それならば、最期の時をどのように過ごすのか。

会わせたい人がいるのか、何かしてあげたいことがあるのか、少しでも長くそばにいたいのか、一緒に眠りたいのか…、目の前のかけがえのない人は最期の時をどのように過ごすことを望むのだろうかという想像に思いを巡らせる。

その中に臓器の提供という選択肢が現れるのだと私は考えています。

 

つまりは、「もう、命が助からない」という実感が、家族になければ、臓器提供という決断には決して至らないのです。

 

私自身、最期の時をどのように過ごすのかという時、

「きっと、彼なら臓器提供してほしい」そう望むだろうと思いました。

夫は臓器提供の意思を運転免許証に示していました。それだけでなく、夫と交わした言葉、過ごした時間の中に、最期の時をどのように過ごすのかという「答え」がありました。

「きっと、彼は誰かの役に立つことを望むだろう」そう思えました。

そして、その決断は、私にとって、「彼のためにまだできることがあった。臓器提供は彼の最後の願いなんだ」そう思わせるものでした。

 

私は医療スタッフに支えられたからこそ、この決断に至ることができたと思っています。

茫然と立ち尽くすしかなかった現実を受け止められたのは、医療スタッフのケアがあったからこそであり、また、最期の時をどのように過ごすのかという選択をすることができたのも、医療スタッフへの信頼があったからこそです。

 

急性期の終末期の医療は、家族の支援のという側面においてとても重要であり、かつ困難です。

本人の意思がわからない中、さまざまな重要な決断をする必要がありますし、かつその時間的余裕はありません。

家族の困難だけでなく、ケアを行う側の困難も、医療にかかわる者として、想像できます。

しかし、急性期終末期の家族ケアなくして、選択肢提示などできるはずもなく。

つまりは、急性期終末期の家族ケアなしに、脳死下臓器提供数の増加はけっしてありえないと私は考えます。

 

急性期終末期医療の充実が重要であると私は考えています。その充足とは、今ある設備、人員などが医療機関によって異なることから、求められるものはおそらく同じではなく、異なるのでしょう。しかしながら、人材の確保、育成という面においてはどこも同じであり、その充足には時間がかかることは明白です。

しかしながら、医療従事者の待遇は今現在においても、改善の余地があり、終末期医療の実施は医療従事者にとって簡単に実施できるものではありません。専門的な知識、そして経験も必要でしょう。何より医療従事者自身に過度な負担を強いるような体制であってはならないでしょう。労働環境の改善も含めた体制整備が求められていると考えています。

 

長期的な支援の必要性

2023年07月19日その他,ブログ

こんにちは

ここのところ、お知らせが多く、なかなか記載できていませんでしたが、今日は長期的な支援の必要性について思うことを記載します。

私は臓器移植委員会に参加させていただいております。その委員会はやはり「ドナーを1例でも増やそう」という考えが基本にあります。救える命を救えていない、移植を待っている患者さんがたくさんいる。臓器提供をしてもいいという患者の意思を守れていない。臓器提供は患者の権利だ。そのような考え方が中心にあり、どうすれば移植数が増えるのかという議論がなされています。

このような議論の流れは、議事録や委員会の配信などをご覧いただければよくわかると思います。

そのよう中で私は、終末期医療の重要性とドナー家族の中長期的、多様な支援の必要性を訴えているのですが、あまり理解されている印象はありません。

先日も、「臓器提供をした家族がわざわざ、お礼を言いに来てくれた」ととある医師が話されていました。ドナー家族の方がどのような思いを持って、医師に言葉をかけたのかはわかりませんが、その医師は「ドナー家族は提供したことをポジティブに捉えている」という認識をしていることは理解できました。「臓器提供は悲嘆にいい影響がある」と考えている方がいることも認識しています。

もちろん、ドナー家族が医療者に感謝していること、提供したことをポジティブ捉えること、そして、悲嘆にいい影響を与えるということも、あると思います。それは疑いようのない事実でしょう。

でも、それだけではないと私は思うのです。その時はそのように思えていても、その思いは変わってしまうこともあるのではないでしょうか。生きているといろんな経験をします。いろんな人と係わります。そのような中でいろんな思いを抱くと思うのです。残念ながら、社会はドナー家族にとって優しいものではないと私は思っています。

その一端を垣間見ることができるのではないかと思う、2017年の裁判をご紹介します。判決文がネット上に公開されておりましたので、リンクを貼りました。

誰が悪いということではなく、傷ついたドナー家族がいるということは事実です。そして、ドナー家族の支援をしているのは、みなさんご存じの通り日本臓器移植ネットワークです。日本臓器移植ネットワークへの信頼を失った彼らを支援を誰がすることができるのでしょう。

このようなことは、ごく稀なケースなのかもしれませんが、稀なケースだから、斬り捨てていいわけではないと私は思います。

提供したことをポジティブに捉え、悲嘆にいい影響があったとしても、提供してからもずっとドナー家族は生きていくのです。その中でどのような経験をするのか、それは誰にもわからないのではないでしょうか。だからこそ、長期的な支援が多様に必要であると私は思うのです。

090745_hanrei.pdf (courts.go.jp)

臓器提供という経験

2022年03月3日その他,ブログ

先日の会議にて、とある委員の方が「ドナー家族が苦しんでいることは以前から言われていた」というような発言を聞きました。

議論の中心は医療施設内での家族の支援についてになります。その議論が「どうすれば、ドナーの数が増えるのか」ということではなく、「どのように家族の支援をするか」とならなくてはなりません。そして、提供する権利も、提供しない権利も守られなければなりません。

たくさんの医療者の方々が、家族を支えようとしていること、そしてその体制整備がすすむ方向にあると感じます。

しかし、ドナー家族の支援が求められているのは、医療施設内だけではありません。医療施設を離れてからもずっと、ずっと支援は必要なのです。会議の中で委員の方がいったように「ドナー家族は苦しんでいる」のだと思います。

ドナーの数をひとりでも、多くしたいと思っている人たちは、ドナー家族が苦しんでいるという現実をご存知だったのでしょうか。知っていながら、何もせずに、ドナーを増やしたいと、増やさなければならないと言っているのでしょうか。

 

 

「臓器提供」というものに係ったこと経験は決して消えてなくなることはありません。臓器提供に関しての知識を十分に理解し、脳死に関すること、その病状、移植医療のしくみやシステム、社会的な認識、法律成立に関しての経緯、そのような諸々をすべて承諾して、「臓器提供」に同意をする人など、一人もいないでしょう。危機的な状況の中で、時間的な猶予のないまま、「これでいいんだ」と自分を信じ、医療従事者を信じ、「臓器提供に同意」するのでしょう。そして、「臓器提供」という、一つの経験を受け取る。

この臓器提供という経験は、その後、様々な場面で次々にいろんな感情を引き出してきます。「これでよかったのかという葛藤」であったり、「脳死」の問題であったり、「ドナー家族」という役割であったり、多少なりとも「こんなはずじゃなかった」と思うことがあるのではないでしょうか。それが、大きな問題とならないのは、「同意をしたのは自分自身だから」という「自己責任」だと思います。

「臓器提供に同意したのは私だから」そう言って、全てを一人で抱えているのでしょう。その思いを吐き出すことなく、心にとどめ、何でもないように暮らすことは本当に苦しいものでしょう。その思いを受け止められる選択肢が、家族の会であったり、そして医療機関であったり、県のコーディネーターであったりと、一つでも多くなることを願っています。

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くすのきの会 代表米山 順子

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米山 順子

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1999年医療系短大卒業、看護師として総合病院や社会福祉協議会などに勤務しながら、私生活では結婚、二児の母となる。 数年前に夫がドナーとなり、ドナー家族となる。通信制大学に編入し、学びを深め、社会の変化による悲嘆の癒しにくい現状、日本の移植医療、ドナー家族の現状を知り、臓器移植ドナー家族の会の設立に至る。

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