2023年11月28日 |ブログ
11月9日に韓国のプサンで開催されました、韓日臓器提供国際シンポジウムに参加しました。
このシンポジウムは、プサンの社団法人韓国臓器寄贈協会がプサン市の支援を受け開催されました。このシンポジウムに参加させていただき、たくさんの学びを得ました。この機会をいただきました、韓国臓器寄贈協会の皆様に心から感謝いたします。ありがとうございました。
ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、韓国で脳死下による臓器移植が可能となったのは、1999年です。また、韓国は家族の同意によって、臓器の提供が可能となります。そして、日本と同じように、臓器提供をする場合にのみ、脳死を人の死とし、臓器提供しない場合にはそのままの治療が続けられます。
人口100万人当たりの臓器提供数は、アメリカ33.32人です。そして、韓国は8.66人、日本0.88人です。
法律が成立したの年も同じくらいであり、法整備も似ているにもかかわらず、日本と韓国の臓器提供には大きな差がある。この差は一体なんなのか、私はとても興味がありました。そして、韓国ではどのようにして、家族は提供に至るのか、その後どのような支援を受けているのか、知りたいと思いました。何とか日程を調整し、20年以上ぶりの海外へ行くことにしました。
まず、思ったのは「臓器寄贈協会」の名称です。臓器「提供」ではなく、「寄贈」なんだと思いました。臓器寄贈協会の皆様は、本業を営みながら、ボランティアとしてこの活動をされています。日韓の貿易関係の仕事をされている方、若者の就職のあっせん、アドバイスをされている方、農産物生産工場を経営されている方と業種はさまざまでした。医療に関係する薬剤、医療機器メーカーの方がいないことが印象的でした。どうしてこの活動をしているのか?と尋ねたところ、「だっていいことだから。もちろん、企業のイメージアップになることとか、人脈が作れることとか、私たちに利点があるの」そのように言われていました。
大学生による移植の普及啓発を行うボランティア団体として新しく設立したとのことで、大学生がシンポジウムの会場設営などの運営を行っていました。
たくさんのボランティア活動によって移植医療が普及啓発されていると感じました。
そして、シンポジウムでは、韓国での移植医療の現状などの発表があり、大変興味深く聞かせていただきました。残念ながら、言葉の壁があり、通訳をしていただきながらの聴講のため、詳しくは理解できませんでしたが、韓国の現状を知ることができました。その後、ホテルの会場で、移植医療の普及啓発活動に尽力された方の表彰があり、そして、ドナー家族の表彰式がありました。どのような基準で選出されているのかはわかりませんでしたが、たくさんの方が、名を呼ばれ、きらびやかな舞台に立ち、記念の盾と花束を手にして、盛大な拍手を受けているてみえました。そのドナー家族の皆様は、とても誇らしい表情をされておりました。
韓国で、ドナー家族の方が何らかのメディアで、報道されるときに「本名でよろしかったでしょうか?」とは聞かれないだろうなと思いました。名を隠す必要など韓国ではありません。ドナー家族はほめたたえる人であり、素晴らしいことをした人たちたのです。
国が違えば、社会が違う、そうすると考え方が大きく違うんだなと感じました。日本では提供する権利、しない権利という考え方がなされます。韓国では、寄贈なので、権利ではありません。「しなくてもいいのに、贈ってくれた」という善意という考え方でしょう。適切ではないと思いますが、募金と置き換えればわかりやすいのかもしれません。『自分が手にしている金銭を困っている人に贈る』その金銭を贈らなくてもいいです。募金をする権利、募金をしない権利と言われるとなんだか違和感がありますね。臓器提供は心からの善意であり、そして社会はそれに応える。
シンポジウムの資金がプサン市から出ていること、また、たくさんの業種のボランティアに参加されていること、臓器寄贈という考えが韓国にはあるんだと思いました。
改めまして、シンポジウムに呼んでいただきありがとうございました。心から感謝いたします。この経験を自身の糧として、精進していきたいと思います。
11月18日(土曜日)に東京、品川で、日本臓器移植ネットワーク主催のドナー家族のための集いが開催されました。コロナ禍を経て、4年ぶりとなる開催となり、たくさんのご家族が参加されていました。
お声がけいただきましたみなさま、ありがとうございました。懐かしい方にお会いできたり、いつもは画面越しにお会いしていても、対面で会うのは初めてだったり、とても楽しく過ごすことができました。
ご多忙の中、開催にあたり準備、感染対策などご苦労もあったと思います。日本臓器移植ネットワークのみなさまに心より感謝いたします。ありがとうございました。
さて、あまり時間はありませんでしたので、たくさんの方とお話をすることができませんでしたが、印象的だった言葉を少しご紹介します。
「いつまで経っても、悲しいし、苦しいものよ」息子さまを亡くされたお母さまのお言葉でした。わが子を喪う悲しみは、とてもとても深いものだと感じました。二年、三年経っても、思い出すたびに鮮明によみがえる悲しみは心を締め付けてしまうのでしょう。
また別の方ですが、「息子が死んでしまったことは、とても悲しいけど、可哀そうって思われることに違和感がある」
悲しくて、苦しいけれど、可哀そうではない。
私も家族を喪った者として、本当にその通りだと感じました。大切な家族を失い、それはとても悲しくて、苦しいけれど、それを伝えた人に自分のことを可哀そうだと思われることに違和感を覚える。
現在、社会は死が日常の中にはありません。かつて、病人は自宅で看取り、葬儀も自宅で執り行われていました。しかし、現代は病気になれば、病院に行き、看取りの多くは病院で行われます。葬儀を自宅で行う方も少ないでしょう。
生と死が表裏一体であり、生があるから死がある。死があるから、生があると私は思います。しかしそれを感じることができる社会ではありません。死は日常から大きく離れていて、日常の中で死を感じることはないでしょう。それがいいことなのか、そうではないことなのかは、またべつの問題ですが。
自身の死について話すことが、とても難しい社会において、臓器提供の意思表示のして、それについて家族と話し合うということは、とても難しいだろうなと思いました。
(話題がずれました・・・)
死があまりに遠い社会において、ドナー家族が自身の家族を喪ったことを話すことを躊躇する現状と、その先の臓器提供の経験を語る場がないことも想像に難くないのではないでしょうか。
ドナー家族の集いは、そのようなドナー家族にとって、有意義なものであると私は思います。改めまして、開催されましたこと、心から感謝いたします。
1999年医療系短大卒業、看護師として総合病院や社会福祉協議会などに勤務しながら、私生活では結婚、二児の母となる。 数年前に夫がドナーとなり、ドナー家族となる。通信制大学に編入し、学びを深め、社会の変化による悲嘆の癒しにくい現状、日本の移植医療、ドナー家族の現状を知り、臓器移植ドナー家族の会の設立に至る。