その他

特別な医療

2021年08月21日その他,ブログ

以前、「当たり前の医療に・・・」脳死下臓器提供が日常のごく一般的な医療になればと救急医療に関わる医師がつぶやいたのを耳にしたことがあります。

最近になって、そんな日が来るのではないかと思いました。少なくとも、不可能とは思いません。

それは、私の息子が夫の臓器提供を「毒にも薬にもならない」と言ったことがきっかけです。臓器提供は特別でも何でもない、父さんが望んだこと、それ以上の意味はないと言うのです。それは提供を決断した時、彼らが幼かったからかもしれません。それでも、私は目から鱗が落ちるようでした。

これこそが臓器提供のあるべき姿だと思いました。「YES」でも「NO」でもどちらでもいい、そのどちらを選んでも、利益も不利益もない。選択肢は、そのようにあるべきでしょう。

 

患者にとって、病気はいつでも緊急事態であり、非日常で特別なものです。移植医療を通常の医療ではないと、特別なものと思っているのは、患者以上に医療者なのではないのでしょうか。何が移植医療をそのように思わせているのでしょうか?件数が少ないため、経験を得ることが難しいことなのでしょうか?誰でも、よくわからないことや、自信のないことをするのは不安でしょう。知識と経験の無さが、特別なものとしているのであれば、乗り越えることは可能でしょう。

 

終末期医療、緩和ケア領域において、エンドオブライフケアの文化的な配慮、多種目チームによるケアが重要であること、メンバーが文化的な背景を理解すること、はよく知られていることと思います。また、患者の意思決定を支えるために求められるコミュニケーション技術のこと、医療チーム内のコミュニケーションが良好であることが重要であることなども、すでにたくさんの医療者が周知していることでしょう。

「最期の時をどう過ごすのか」その意思決定をするのは、患者とその家族です。自宅で過ごすのか、病院で過ごすのかなど、その選択肢を提示し、彼らが自ら答えを見つける。「答えを見つける」その家族の力を最大限に引き出すことが医療者に求められるのでしょう。その答えは、家族の過ごした時間、交わした言葉、その思いが撚り合わされ、導かれるものでしょう。

 

急性期における終末期ケアの難しさは、想像以上でしょう。目の前の患者の命を救いたい、それは医療に携わるものであれば、抱く当然の感情であり、もう命を救うことができないことを医療者自身が受け入れなければなりません。そして、信頼関係を構築もままならない状況で、家族にバッドニュースを伝えなければならず、時間的な余裕もなく、患者とその家族の背景などの情報も不十分な状態での家族を支援する方法など、私には思いつきもしません。

しかしながら、たくさんの移植医療に関わる方の熱意とご尽力があれば、可能なのではないかと思うのです。

 

急性期の終末期の家族のケア、寄り添うこと、支えること、言葉にすると一言ですが、とても難しいでしょう。患者家族と信頼関係を築き、最期の時をどう過ごすのかを共に考える。その選択肢の中に『臓器提供』があるのです。そして、その決断を支えなければなりません。

信頼関係の構築なしに、『臓器提供』の選択肢の提示をしても、家族はけっして受け入れることはできないでしょう。頭での理解も、心での理解もできないでしょうから。

突然に大切な人の命が脅かされている家族に対して、どのようなケアが求められていているのかを明らかにするためには、臓器提供をする決断をした家族が今、どんな思いで過ごされているのか、また、提供をしない決断をした家族が、今どのような思いでいるのか、もっともっと、その声を聞くことが必要なのではないでしょうか。

そうすることで、急性期の終末期のケアの知識と経験が積み重なり、移植医療はよりよくなっていくでしょう。

そして移植医療が特別ではない医療になるのではないかと私は思っています。

 

 

 

家族の会

2021年08月12日その他,ブログ

先月、ご縁がありまして、ガンの患者会や発達障害児の支援に関わってみえる方とお会いする機会がありました。

その方に、「あなたにはできない」と言われました。

「あなたは誰も救えない。助けることはできない。あなた自身がもっと癒されないと、誰かを引き上げることなんてできない」と。反論の余地はありません。その通りでしょう。

私は誰も助けようとは思っていませんし、ましてや救おうとは考えたこともありません。そして、私が傷を抱えていて、それが今も、痛むことは事実でしょう。

私は私が誰かを救いたくて、助けたくて、家族の会を立ち上げたわけではありません。ただ、私は知りたかったのです。他のドナー家族の方がどのようにして過ごしているのかを、聞いてみたかったのです。それは、私が苦しいからです。この苦しみを受け入れていても、自分ではどうにもならないと思うことがあるからです。

例えとして適切ではないのかもしれませんが、「毎日のお弁当作り」のような感じです。毎朝、「お弁当を作ること」それは誰かに代わってもらうことはできない。それを嫌がっているわけではないのです。ただ、他の人はどのようなお弁当を作っているのかを聞いてみたい。おかずが痛みやすい夏場はどうしているのか、汁気が出てしまうことはないのか、朝寝坊した日は?前日の用意は?本当にちょっとしたことをどうしているのか、私は聞いてみたいし、知りたいと思ったのです。

必要なお弁当も、料理に対する技術も、人それぞれでしょう。成人男性のお弁当、小さな子供のお弁当、温めなおして食べられる環境にあるお弁当、長時間炎天下におかれてしまうお弁当、求められる状況も環境も、それぞれ異なり、まったく同じお弁当があるわけもない。

それでも、お弁当を作っている人に「お弁当どうしてる?」そう、聞きたいのです。

大切な家族を失うという、この悲しみや苦しみは、誰かに変わってもらうことなどできません。また、臓器提供に至る経緯、そしてその思いは同じ家族であっても、同じではないでしょう。誰かに聞いてみることができる場がある、ドナー家族に会うことできる場がある。それが誰かの何かの力になれば、そんな思いがあります。

 

 

「臓器提供をされた方のご家族に対する調査」の集計結果が今年の四月に日本臓器移植ネットワークのホームページに掲載されました。(アドレス下記参照)

そのフリー記載欄に「自分の問題です。自分でなんとかすることです」そう書かれていました。

私自身もそう思っていました。「自分の気持ちの問題」「自分一人でなんとかすること」と考えていました。

夫が逝去してから、一年半くらい経った頃にお会いした人に「あなたは支援を受けていい、支援を受けるべき人だ」と言われました。その時には「はぁ、そうですかね」くらいにしか思っていませんでしたが、それからしばらく経ってから、「そうか、助けてって言っていいんだ」そう思いました。

一人で何とかすることばかり考えていましたし、一日も早く元気になることが、私を支えてくれている人たちへの恩返しになり、心配を掛けたくないと、安心してほしいと思っていました。「もう大丈夫ですよ」と言いたかったです。

だからこそ、「助けてほしい」なんて考えもしませんでした。「助けて」と言えないのではなく、「誰かに助けてもらっていいこと」だとも、思っていなかったのです。

違うんだと、「助けて」そう言っていいんだと、一人で頑張らなくてもいいんだと気づきました。つらさや苦しさ、そして生き辛さを言葉にして、誰かに伝えてもいいんだと、気づきました。

その「助けて」という言葉を、どこにだれに伝えるのか、それはその人が選ぶことでしょう。家族でも、友人でも、頼れるところがたくさんあればいいと思います。その中に、その選択肢の一つとして、「家族の会」があればいいそう思います。

家族の会では、助けにならなくても、救われなくても、「助けてほしい」そう言える場を一つでも多くしたかった。私自身が苦しいからこそ、何が私にできることがあるなら、やってみようと思ったのです。

悲嘆プロセスは時間をかけてやり遂げなければならない人生の重要な課題であり、インスタントな方法はない。この悲嘆は受動的ではなく、能動的に達成されるべき課題であり、成し遂げるためには、本人の積極的な心構えと意欲、そして周囲の人の温かい支えが何よりも大切だと、アルフォンス・デーケン氏も著作「よく生き、よき死と出会う」で書かれています。

全ての人に訪れる死、そして経験する大切な人の死、それらの悲しみが少しでも軽くなること、そしてその人の悲嘆の道が少しでも歩きやすくなることを願っています。

 

 

日本臓器移植ネットワークのホームページ参照

『臓器提供をされた方のご家族に対する調査』の集計結果について|日本臓器移植ネットワーク (jotnw.or.jp)

OPTING OUTの制度

2021年08月1日その他,ブログ

今日は、臓器提供の制度についてお話させていただこうと思います。

制度には大きく2つあり、一つは、アメリカ、ドイツ、イギリスのように本人が生前、臓器提供の意思表示をしていた場合、または家族が臓器提供に同意した場合に臓器提供が行われるOPTING INという制度、もう一つは、オーストリアやフランス、スペインなどの本人が生前、臓器提供に反対の意思を残さない限り、臓器提供をするものとみなすOPTING OUTという制度です。
人口の少ない国でもOPTING OUTの制度で取り組む国は、提供数が多くなる傾向があります。
なお、どちらの制度の場合も実際には家族の反対があれば臓器提供は行われません。

(上記、日本臓器移植ネットワークのホームページより抜粋)

 

先日、委員会にて「OPTING OUTの制度についてどう思うか」質問を受け、返答できませんでしたので、あらためて、お答えさせてただこうと思います。

とっさに「無理でしょ」と思いました。その理由を、明確にまとめることができませんでした。あらためて、じっくりと考えてみますと、不本意に提供してしまう家族が増えると感じました。

その理由として、日本の医療に、指摘される特徴として、医師のパターナリズムと、患者(家族)のお任せ思考があります。患者は自分から説明を求める、質問すると言った行動を必ずしもとらないことがあります、信頼していないと思われるのではないか、怒られるのではないかといった心理があると言われおり、また、素人が玄人(医師)に「おまかせ」することを良しとする文化的背景があります。

「YES」が前提の臓器提供の制度は、「臓器提供しなければならない」という理解となり、「NO」と思っていても、「NO」ということができない可能性があると思うからです。

 

また、

医療関係者、特に医師と、患者、患者家族のコミュニケーションは特殊です。

まず、知識、社会的地位など、力の不均衡があります。そして、論理的視点、医学的な論点で話す医師と、社会心理的視点、心情、感情的な論点で話す患者、家族とでは、視点が異なる点、そして、危機的状況で最適なコミュニケーションができない不安定な心理状態である点、時間も限られており、場所も制限されています。このような状況で、正しく理解し、納得して同意を得ることは、非常に難しいでしょう。

「臓器提供する機会がある」という選択肢の提示が「家族が拒否したら臓器提供しない」、「家族が提供を拒否したら臓器提供できない」という理解に転じてしまう危険性があると思うからです。

 

そして、脳死と思われる可能性があると言われるのは、私の場合5日でした。その5日の間に、状況を受け入れ、提供を決断するためには、医療スタッフのきめ細やかな対応が必要不可欠と思います。その対応があるからこそ、最期の時をどう過ごすのかを考えることができ、臓器提供という選択をすることができるのだと思います。

臓器提供ありき、の制度であれば、その終末期の対応を得られず、状況を受け入れることのないまま、医師に言われ、提供に至り、何かなんだかわからないうちに「提供していた」という危険があると思うのです。

 

臓器提供の決断は、家族がともに過ごした時間、交わした会話、その意思をより合わせて、決定されると私は思います。どちらの制度であっても、家族が望まない限り、提供には至らないのです。しかし、今の文化社会的背景を考えると、私はOPTING OUTの制度は、賛成できないと思うのです。

 

 

参考までに、抜粋させていただきました日本臓器移植ネットワークのホームページです

世界の臓器提供数(100万人当たりのドナー数)|日本臓器移植ネットワーク (jotnw.or.jp)

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くすのきの会 代表米山 順子

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米山 順子

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1999年医療系短大卒業、看護師として総合病院や社会福祉協議会などに勤務しながら、私生活では結婚、二児の母となる。 数年前に夫がドナーとなり、ドナー家族となる。通信制大学に編入し、学びを深め、社会の変化による悲嘆の癒しにくい現状、日本の移植医療、ドナー家族の現状を知り、臓器移植ドナー家族の会の設立に至る。

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