2021年06月19日 |その他
私はこの言葉を聞くたびに、違和感と苛立ちを覚えます。
臓器移植委員会でも、日本臓器移植ネットワークの第三者事業評価委員会でも、
「ドナーが足りない」という意見がきかれます。
ドナーを増やすにはどうしたらいいのかと、議論されます。
私はドナー家族です。ドナーとなるということは死別するということです。
深い混乱の中、「臓器提供」という決断をした悲しみと苦しみを思うと、たくさんの人に家族を失う体験を、ひとりでも多くの人にしてほしいとは、思えないのです。
もちろん、日本でたくさんの人が今、この瞬間もなくなっていますし、
そして、1万5千人もの人が、移植を待っている現状があるのも、事実でしょう。
それでも、私は「ドナーが足りない」その言葉に異議を唱えます。
正しくは「臓器提供をする権利を守る」だと思うからです。
この言葉は、似て非なるものです。
脳死に至る原因は、内因性疾患、外因性疾患、自死自殺と多岐に及びます。
しかし、そのどれもが、急性疾患です。突然で、緊急事態です。
あまりのことに、呆然と立ち尽くし、家族の変わり果てた姿を現実として受け入れることなどできない。
その大切な家族が失われるかもしれない。
その命が消えてしまうかもしれない。
受け入れがたい事実を前に、混乱して、涙も出ない。
もう助からないからこそ、自分たち家族に何ができるのか。
大切な家族と過ごした時間、重ねた会話、それらをより合わせ、最期の時間をどう過ごすのかを決める。
その選択肢の一つに「臓器提供」がある。
それが、「提供する権利」であり、その権利は守られるべきと私は思うのです。
そして、同時に「提供しない権利」も守られるべきです。
そのために、医療がどうあるべきなのか、そのために普及啓発はどのようになされるべきなのか。
そこが、論点だと私は思うのです。
「提供する権利」が守られ、結果としてドナーが増えることもあると思います。
そうすることで、移植を待つ患者さんの命が救われるようになる。
そのための議論だと私は考えています。
移植医療の新参者であり、若輩者であるせいなのでしょうか、
他にもたくさんの違和感を覚えます…。
1999年医療系短大卒業、看護師として総合病院や社会福祉協議会などに勤務しながら、私生活では結婚、二児の母となる。 数年前に夫がドナーとなり、ドナー家族となる。通信制大学に編入し、学びを深め、社会の変化による悲嘆の癒しにくい現状、日本の移植医療、ドナー家族の現状を知り、臓器移植ドナー家族の会の設立に至る。