先日の会議にて、とある委員の方が「ドナー家族が苦しんでいることは以前から言われていた」というような発言を聞きました。
議論の中心は医療施設内での家族の支援についてになります。その議論が「どうすれば、ドナーの数が増えるのか」ということではなく、「どのように家族の支援をするか」とならなくてはなりません。そして、提供する権利も、提供しない権利も守られなければなりません。
たくさんの医療者の方々が、家族を支えようとしていること、そしてその体制整備がすすむ方向にあると感じます。
しかし、ドナー家族の支援が求められているのは、医療施設内だけではありません。医療施設を離れてからもずっと、ずっと支援は必要なのです。会議の中で委員の方がいったように「ドナー家族は苦しんでいる」のだと思います。
ドナーの数をひとりでも、多くしたいと思っている人たちは、ドナー家族が苦しんでいるという現実をご存知だったのでしょうか。知っていながら、何もせずに、ドナーを増やしたいと、増やさなければならないと言っているのでしょうか。
「臓器提供」というものに係ったこと経験は決して消えてなくなることはありません。臓器提供に関しての知識を十分に理解し、脳死に関すること、その病状、移植医療のしくみやシステム、社会的な認識、法律成立に関しての経緯、そのような諸々をすべて承諾して、「臓器提供」に同意をする人など、一人もいないでしょう。危機的な状況の中で、時間的な猶予のないまま、「これでいいんだ」と自分を信じ、医療従事者を信じ、「臓器提供に同意」するのでしょう。そして、「臓器提供」という、一つの経験を受け取る。
この臓器提供という経験は、その後、様々な場面で次々にいろんな感情を引き出してきます。「これでよかったのかという葛藤」であったり、「脳死」の問題であったり、「ドナー家族」という役割であったり、多少なりとも「こんなはずじゃなかった」と思うことがあるのではないでしょうか。それが、大きな問題とならないのは、「同意をしたのは自分自身だから」という「自己責任」だと思います。
「臓器提供に同意したのは私だから」そう言って、全てを一人で抱えているのでしょう。その思いを吐き出すことなく、心にとどめ、何でもないように暮らすことは本当に苦しいものでしょう。その思いを受け止められる選択肢が、家族の会であったり、そして医療機関であったり、県のコーディネーターであったりと、一つでも多くなることを願っています。
1999年医療系短大卒業、看護師として総合病院や社会福祉協議会などに勤務しながら、私生活では結婚、二児の母となる。 数年前に夫がドナーとなり、ドナー家族となる。通信制大学に編入し、学びを深め、社会の変化による悲嘆の癒しにくい現状、日本の移植医療、ドナー家族の現状を知り、臓器移植ドナー家族の会の設立に至る。