私はこの言葉を聞くたびに、違和感と苛立ちを覚えます。
臓器移植委員会でも、日本臓器移植ネットワークの第三者事業評価委員会でも、
「ドナーが足りない」という意見がきかれます。
ドナーを増やすにはどうしたらいいのかと、議論されます。
私はドナー家族です。ドナーとなるということは死別するということです。
深い混乱の中、「臓器提供」という決断をした悲しみと苦しみを思うと、たくさんの人に家族を失う体験を、ひとりでも多くの人にしてほしいとは、思えないのです。
もちろん、日本でたくさんの人が今、この瞬間もなくなっていますし、
そして、1万5千人もの人が、移植を待っている現状があるのも、事実でしょう。
それでも、私は「ドナーが足りない」その言葉に異議を唱えます。
正しくは「臓器提供をする権利を守る」だと思うからです。
この言葉は、似て非なるものです。
脳死に至る原因は、内因性疾患、外因性疾患、自死自殺と多岐に及びます。
しかし、そのどれもが、急性疾患です。突然で、緊急事態です。
あまりのことに、呆然と立ち尽くし、家族の変わり果てた姿を現実として受け入れることなどできない。
その大切な家族が失われるかもしれない。
その命が消えてしまうかもしれない。
受け入れがたい事実を前に、混乱して、涙も出ない。
もう助からないからこそ、自分たち家族に何ができるのか。
大切な家族と過ごした時間、重ねた会話、それらをより合わせ、最期の時間をどう過ごすのかを決める。
その選択肢の一つに「臓器提供」がある。
それが、「提供する権利」であり、その権利は守られるべきと私は思うのです。
そして、同時に「提供しない権利」も守られるべきです。
そのために、医療がどうあるべきなのか、そのために普及啓発はどのようになされるべきなのか。
そこが、論点だと私は思うのです。
「提供する権利」が守られ、結果としてドナーが増えることもあると思います。
そうすることで、移植を待つ患者さんの命が救われるようになる。
そのための議論だと私は考えています。
移植医療の新参者であり、若輩者であるせいなのでしょうか、
他にもたくさんの違和感を覚えます…。
2021年1月末より日本臓器移植ネットワークによって実施されていました「臓器提供に関するアンケート調査」の集計結果がまとまり、4月7日に日本臓器移植ネットワークのホームページに掲載されました。
『臓器提供をされた方のご家族に対する調査』の集計結果について (jotnw.or.jp)
たくさんのドナー家族がこの調査に協力され、調査には様々な思いがあらわれています。
また、この調査には、自由記載があり、提供をされた家族の声が聞こえてきます。そのひとつひとつが苦しく、悲しく、私自身の思いと重なり、読み進めることが難しくなるくらいでした。
「今さら提供しなかったらよかったなんて思いたくない、納得するしかない」
「決断は死を認め、死期を決めること」など、家族の葛藤が非常に深く、精神的な負担が大きいと感じました。
そして、提供施設での医療従事者の対応に傷つかれた方、社会の理解のなさを感じている方の声がありました。
私は提供施設で大変よくしていただき、不快な思いをしたことも、傷ついたこともありませんが、社会の理解のなさは感じることがあります。
何度か「夫は臓器提供をしたんです」と話をしたことがありますが、たいていの方は「へぇ、そうなんだ」と言い、その後に続く言葉を見つけられないようで、ひどく困らせてしまうのです。(ピンとこないという表現が一番いいのかもしれません)
一度、「いくらか(お金が)もらえるんでしょ」と言われました。私達の決断は、金銭の授与が目的、対価として捉えられるのかと非常に傷つき、以来、臓器移植について友人や知人に話すことはしなくなりました。
社会の理解を進めるには、まずは私の身近な人たちに知ってもらうことが一番いいのかもしれません。私の傷がもう少し癒えるまで、また身近な人たちに語る勇気を持つことができるようになるまで、もう少し時間をいただきたく思います。
ドナー家族が悲しみと苦しみの中で決断し、その後も様々な葛藤を抱えて、必死に生きていることが、理解される社会となることを心から願い、そしてその一助となるよう尽力していきたいと思います。
1999年医療系短大卒業、看護師として総合病院や社会福祉協議会などに勤務しながら、私生活では結婚、二児の母となる。 数年前に夫がドナーとなり、ドナー家族となる。通信制大学に編入し、学びを深め、社会の変化による悲嘆の癒しにくい現状、日本の移植医療、ドナー家族の現状を知り、臓器移植ドナー家族の会の設立に至る。