11月18日(土曜日)に東京、品川で、日本臓器移植ネットワーク主催のドナー家族のための集いが開催されました。コロナ禍を経て、4年ぶりとなる開催となり、たくさんのご家族が参加されていました。
お声がけいただきましたみなさま、ありがとうございました。懐かしい方にお会いできたり、いつもは画面越しにお会いしていても、対面で会うのは初めてだったり、とても楽しく過ごすことができました。
ご多忙の中、開催にあたり準備、感染対策などご苦労もあったと思います。日本臓器移植ネットワークのみなさまに心より感謝いたします。ありがとうございました。
さて、あまり時間はありませんでしたので、たくさんの方とお話をすることができませんでしたが、印象的だった言葉を少しご紹介します。
「いつまで経っても、悲しいし、苦しいものよ」息子さまを亡くされたお母さまのお言葉でした。わが子を喪う悲しみは、とてもとても深いものだと感じました。二年、三年経っても、思い出すたびに鮮明によみがえる悲しみは心を締め付けてしまうのでしょう。
また別の方ですが、「息子が死んでしまったことは、とても悲しいけど、可哀そうって思われることに違和感がある」
悲しくて、苦しいけれど、可哀そうではない。
私も家族を喪った者として、本当にその通りだと感じました。大切な家族を失い、それはとても悲しくて、苦しいけれど、それを伝えた人に自分のことを可哀そうだと思われることに違和感を覚える。
現在、社会は死が日常の中にはありません。かつて、病人は自宅で看取り、葬儀も自宅で執り行われていました。しかし、現代は病気になれば、病院に行き、看取りの多くは病院で行われます。葬儀を自宅で行う方も少ないでしょう。
生と死が表裏一体であり、生があるから死がある。死があるから、生があると私は思います。しかしそれを感じることができる社会ではありません。死は日常から大きく離れていて、日常の中で死を感じることはないでしょう。それがいいことなのか、そうではないことなのかは、またべつの問題ですが。
自身の死について話すことが、とても難しい社会において、臓器提供の意思表示のして、それについて家族と話し合うということは、とても難しいだろうなと思いました。
(話題がずれました・・・)
死があまりに遠い社会において、ドナー家族が自身の家族を喪ったことを話すことを躊躇する現状と、その先の臓器提供の経験を語る場がないことも想像に難くないのではないでしょうか。
ドナー家族の集いは、そのようなドナー家族にとって、有意義なものであると私は思います。改めまして、開催されましたこと、心から感謝いたします。
1999年医療系短大卒業、看護師として総合病院や社会福祉協議会などに勤務しながら、私生活では結婚、二児の母となる。 数年前に夫がドナーとなり、ドナー家族となる。通信制大学に編入し、学びを深め、社会の変化による悲嘆の癒しにくい現状、日本の移植医療、ドナー家族の現状を知り、臓器移植ドナー家族の会の設立に至る。