その後の歩み ⑦

2021年07月11日ブログ,臓器提供とその後

 

 

その日、私は本当に精神的に限界だったと思う。

部屋の窓から見える空があまりに青くて、雲が白く浮かんでいて、何もつらいことなんてないみたいにのどかだった。

私は吸い寄せられるように、ベランダに出た。

そら

この向こう側に行けば、もう何も苦しいことも、悲しいこともないのではないか、全部おいて行けるのだろうかと、思った。

手を伸ばして、握った手すりはひどく熱く、すぐに手を離した。

握ることはおろか、触れることさえできないくらい熱かった。

手すりにも触れられず、ぼんやりと立ち尽くし、空を見ていた。

風が髪をゆらして、流れていく雲を見ていた。

ベランダには布団が干してあった。

その布団が風にあおられて、ふわりとまくれ上がる。

ぱたり、ぱたりと、はためくけれど、それはベランダの向こう側に落ちない。

しっかりと緑とピンクの布団ばさみが押さえている。

布団を見つめたまま、私は座り込んで、少し泣いた。

私と私達家族を支える人達の顔が浮かんだ。

今ここで私がベランダの向こう側に行けば、悲しませてしまう人がいるなと思った。

どれくらいの時間、ベランダにいたのかわからないけれど、部屋にもどると、ソファに寝ていたチョコがちらっと私を見た。その顔がひどく私をバカにしていて「何してるの」とあきれているようでもあった。「大丈夫だから」チョコにそう言った。

チョコ寝てる

長男を失うかもしれない恐怖、将来どうなってしまうんだろうという不安を持て余していた。

そんな中で私は、死ぬことを選ぶのは彼なんだと思った。私がどんなに生きてほしいと思っていても、死ぬときは死ぬんだと。それは私の意思とは全く関係のないことなんだと思った。

それから、彼と今まで、一緒に過ごせたことを喜び、そして今日一緒にいられることを楽しもうと思った。

死がいつ、誰にどんな形で訪れるのかなんて誰にもわからない。

明日死ぬかもしれないことは、私も、長男も、次男も、生きている人、みんな同じなんだと思った。

今日一緒にいられること、食事ができること、話ができること、それがどんなに大切でありがたいことなのか、私は知っているはずじゃないか、そう思った。三人で食卓を囲み、次男の作った豚の生姜焼きが美味しいこと、キャベツは千切りじゃなくてざく切りだけど、十分じゃないか、今がきらめいて、かけがえがない瞬間であることには違いない。十分じゃないか、そう思った。

 

 

そうして、過去も、未来にも目を向けず、今だけを見つめて、毎日を一歩一歩踏みしめるようにして、過ごしていた。

徐々に長男も新しい高校で友人ができ、居場所をみつけることができたようだった。サークル活動でギターを弾き(Fのコードはきれいに鳴るようになる)、アルバイトで貯めたお金で新しいギターを買い、表情も明るくなり、食事量も徐々に増えて、安定してきた。

そして、通信制の高校特有の、スクーリングという3泊4日の宿泊学習があった。その最終日に駅まで迎えに行き、走って横断歩道を渡った長男の笑った顔をみて、泣いてしまった。

 

次男の時もそうであったけれど、長男も同年代と関わり、そして居場所をみつけることで、元気になっていく。はじけるような笑顔を取り戻すことができる。

私では、到底およばない、友達の力があった。彼らがいきいきと活気に満ち、楽しい時間を過ごすには、私ではだめなんだと思った。同時に、私でなくても、彼らは彼らで自分を支えてくれる友人を見つけ、生きていくんだと思えた。私一人で彼らを支えているなんて言うことは、ひどく傲慢な思いだ。もっと肩の力を抜いて、彼らの力、彼らの友人の力を信じていいと思った。そう思えたことが本当にうれしかった。

私がたくさんの人に支えられるように、彼らもたくさんの人に支えてもらえるんだと知った。

私が一人じゃないように、彼らも一人じゃないと知った。

本当にありがたいことだと思った。

 

 

ようやく、いろんなものが終わった気がした。

止まない雨がないように、明けない夜がないように、私達家族にも、ようやく薄日が差してきたような気がした。

夫の死から、ずいぶんと時間が経っていた。

(ベランダからの朝焼け)

朝焼け

 

 

 

おわりに

この少し後、私は夢をみた。

その夜はあまり眠れず、うとうとしながら何度も夢を見ていた。

私は三人の元気のいい女の子たちに手を引かれ、どこかに向かっていた。

「ここじゃないね」「ここでもないね」「あっちかな?」「こっちかな」

女の子たちは楽しそうに話しながら、ああでもない、こうでもないと、私を連れまわしていた。

すると、ガードレールにもたれかかるように座っている夫がいた。

「あぁ、ここにいた!」

その声に夫は驚き、振り返った。そして、私を見つけ、ばつが悪そうにして視線をはずす。

あまりにも夫らしい反応に、驚いていた私は、少し笑ってしまい、でもかける言葉を見つけられずにいた。

「ひさしぶり、お葬式、簡単に済ませちゃってごめんね。もっとちゃんとすればよかったね」結局、そんなことを言った。

夫は「いや、いい」下を向いたままだった。

そして、顔を上げた夫は「ごめんな」と、私を見て言った。

それから、もっと楽しんでほしい、そんなことを言った。

私に霊感なんてものはないし、正夢なんて見たこともない。幽霊だってみたこともない。

この夢に意味があるのか、私にはわからないけれど、もっと楽しもうと思った。悲観することなく、不安に飲み込まれることなく、誠実にまっすぐに楽しんで生きていこう。

そう思えた。

 

カウンセリングの時に、森川先生に「幸せになりなさい」そう何度も何度も言われた。どうして先生がそういうのか、そう何度も言うのか、私にはわからなかった。

私の罪の意識は強く大きく、私の中にあり、それが「私が幸せになるはずがない」「私は幸せになるべきじゃない」そう思わせていることに気付いた。

「私が彼を殺した」そう思いながらも、「私が幸せになること」これは同時に存在していいと思えるようになった。

今でも、「十分に幸せだ」そう思う。

そのせいか、「もっと」と何かを求めること、そして「したい」と何かを望むことがとても、苦手だ。

 

子供たちの幸せを望むとき、私に何ができるんだろうと思う。

私が感じた苦しみや悲しみを彼らに感じてほしくないと思う。

答えを探しながら、私はできることを誠実にすることしかできない。

 

彼らの望むものをすべて与えることはできないし、彼らにしかできないことばかりだ。

私が代わりにできることはほとんどない。

彼らが幸せになるためには、私が幸せでなければならないと思う。

私が幸せであるためには、彼らに幸せであってほしいから。

きっと、思いは同じだ。

私は子供たちのためにも、毎日を笑顔で楽しく過ごしていこう。

幸せは、今も手の中にあるけれど、もっともっと、幸せになると信じていこう。

そう思う。

 

 

 

私達家族のことを綴ることをここで終えたいと思う。いまだに解決していない問題もあるし、新たに生じた問題もあり、そして、解決した問題もある。今でも、私達家族はいろいろな問題を抱えていて、それでも楽しく、幸せに、何気ない日常を過ごしている。

それはまた別の機会があれば、語りたいと思う。

 

この記録が、だれかの何かの役に立つことを願って。

その後の歩み ⑥

2021年07月11日ブログ,臓器提供とその後

 

 

次男が登校するようになったころ、入れ替わるように長男が体調を崩し始めた。

少しづつ食事の量が減っていき、学校へもっていっていた弁当を残すようになった。表情が抜け落ち、活気もなく、ゲームもしなくなった。ぼんやりとソファに寝転がって、携帯を触っていた。

そして、家で食事をほとんど取らなくなった。どんどん痩せてきていて、夜もあまり眠れていないようだった。

私は学校を休むことを勧めた、「少し休もう。ご飯を食べれるようになって、眠れるようになるまで、休もう」そう言った。長男は「なんで、ご飯が食べれないだけで学校を休むの?」と納得はしていないようだった。けれども、私の言うことを受け入れ、学校を休み、メンタルクリニックを受診した。長男にとって、学校を休むことも、受診することも、不本意だった。

ここで、丁寧に話をしておかなかったことを後になって、非常に後悔する。

私はこの時、怖かった。長男を失ってしまうのではないかと、怖かった。今にも死んでしまいそうな危うさが、その時の長男にはあった。

 

学校を休み、何もすることがないという長男に、好きなことをしようと話をするけれど、彼は何もない、やりたいことなんてない、楽しいことなんてない、好きなことなんてない、そう言っていた。自室にこもり、出てこない長男にしてあげられることなど何もなく、ただ、みていることしかできない。そんな自分が悲しかったし、苦しかった。

結局その後、長男は学校に行くことができなくなった。

「母さんが休めって言ったから休んだ。母さんのせいで、学校に行けなくなった」「一度休んだら、行けなくなった」「必死に頑張って、学校に行っていたのに、母さんのせいだ」

そんな言葉をなげられ、つらかった。

 

私の判断が間違っていたのか、長男が一生懸命頑張っていたモノを断ち切ってしまったのか、彼の築いてきたものを取り上げてしまったのか、その答えはわからず、ただ彼を苦しめていることがつらかった。

長男自身も気持ちに大きな波があった。穏やか過ごすこともあれば、何日も出てこない日もあり、私を責める日もあり、なんてことない会話をする日もある。その彼をただ、受け止めることしかできなかった。

 

高校に相談することはできなかった。

高校の担任の先生と長男の、関係性が希薄で、「学年会議で決まったので、家庭訪問をします、いつがいいですか?」「学校の内科検診を休んだので、近所の内科で検診を受けてください」と言うように対応はいつも事務的であり、長男も頼りにしている様子はなく、私自身も信頼できなった。

住んでいる地域の福祉課に相談したが、15歳までであれば、いろいろな支援があったようだけれど、何もなかった。担当の人も「就職を障害者枠でしようと考えていますか?」と全く予想しないことを言われたりして、うまく助けてくれる人を見つけられなかった。

メンタルクリニックの医師は投薬の調整のみであったし、カウンセリングは長男が希望せず、つなげることができなかった。

結局、長男に関わる大人は、私ひとりだったため、プレッシャーが大きくて、彼を失うかもしれないことが怖くて、これが本当につらかった。

彼の思いを受け止めることが、苦しむ彼をみていることしかできないことがつらかった。

 

「私が調子を崩してしまうわけにはいかない」そう思って、中西さんに話を聞いてもらったり、メンタルクリニックのカウンセリングの回数を増やし、何度も出かけたりした。

森川先生は「大丈夫、私は全然心配してないのよ、彼は大丈夫」いつも繰り返し、そう言ってくれた。

 

 

 

「もう二度と、私が長男のことを決めることはしない。自分で決めてほしい。まだ10代の世界は狭く、選択肢を見つけることができないと思う、だから、私が考えらえる選択肢を用意するから、そこからどうしたらいいのか、どうしたいのか決めればいい。私はその選択を支えて助けるから」そう話した。

そして、もう一度学校に行く、もう少し休む、それから、学校をやめる、やめて違う学校へ行く。という選択肢を提示した。

長男は「学校をやめて、違う学校へ行く」ことを選んだ。

私は、通っていた高校にそのことを伝え、手続きを始め、新しい高校を探し始め、いくつかの通信制の高校のパンフレットを取り寄せた。

 

そんな長男がやりたいと言ったのは、髪を染めることだった。一緒にドラッグストアに行き、長男の髪を染めたけれど、うまくできなくて、ほとんど変わらなかった。(その後、再度チャレンジして、きれいな金髪になる)

次には、「働いてみたい」そう言った。長男にアルバイトをする方法、(履歴書を書くこと、証明写真を撮ること、バイト先を決めること)を教えると、長男は履歴書を書き、近所の飲食店に面接に行き、アルバイトを始めた。

そして、あまりにすることがないから、そう言って自宅にあったアコースティックギターを弾き始めた。インターネットの動画を見て練習していて、いつまでたっても、Fが鳴らないと言っていた。

(写真は長男がアルバイトで購入したギター)

ギター

 

このころ、子供を育てる、養育するとはなんだろう、どういうことなんだろうと、よく考えていた。

勉強をさせること?ご飯を食べさせること?朝起こすこと?洗濯して、掃除して、送り迎えをすること?ゲームを制限すること?

高学歴で、高収入になれば、それでいいのか?体が丈夫ならいいのか?20歳になればいいのか?わからなかった。

子供を大切に思い、幸せであってほしいと願う気持ちは、たいていの親なら持つ感情だと思う。どうしてうまく伝わらないんだろう。私がどのような行動をとれば、その感情が伝えられるんだろう。

何が目的で、何が結果なんだろう。

 

とある人に言われたことがある「あなたのしていることは残酷だ」と。

子供になんでも決めさせ、その結果を子供自身に背負わせるのは残酷だと言われた。同時に「子供は学校に行かせるべき」「ゲームをそんなにさせて、親としての責任を放棄しているのと同じ」とも言われた。

その通りだと思った。

子供自身に判断させることは、残酷なことで、私が責任から逃れたいだけだと思う。

それでも私は、信じたかった。

子供には判断する力があり、自分のことを自分で決めていく力がある。

子供だから世界が狭いかもしれない。けれども、大人の世界が広いとは限らないのではないかとも思う。

ただ、年齢を重ねただけの大人の言葉と世界にどんな意味があるというのだろう。

守るべき存在であり、尊重されるべき存在でもある。

誰の人生で、誰が当事者であるのか。

そのケアを受けること、そして拒むこと、子供の権利とはなんだろう。

すべての行動は『善意』から、しかし、その行動の結果がすべての人にとって善となるとは限らない。

良かれと思った行動の責任は、いったい誰にあるのか。

そんなことを考えていた。

 

 

アルバイトに行き、ギターを弾き、次男とゲームをしたりするものの、気持ちの揺らぎを私にぶつけ、食事の量はなかなか増えず、非常に不安定な状態が続いた。

「中学校も小学校も行けていたのにどうしていけなくなったのか」

「母さんが休めって言ったから行けなくなった、母さんのせいだ」

「どうしていいかわからない、怖い」

「もう少し、勇気があれば人生を終わらせることができるのに」

「前を向きたいけど怖いよ」

昼夜問わず、ふらりと私に話し始める長男のその思いを受け取ることは非常にエネルギーを消耗し、また大切な人が苦しんでいるのを見るのはつらく、その原因が私にあると言われることが苦しくて、申し訳なかった。

「本当はそんなことないってわかっているから、言葉にできるんだよ。ちゃんとわかっているから」中西さんにそう言ってもらえることで救われた。

 

さまざまな彼の言葉を受け止めていたとき、長男は「父さんもこんな風に苦しかったのだろうか。誰にもこうして思いを伝えることができなかったのなら、とても苦しかっただろう」とポロポロと涙をこぼしながら、ぽつぽつと言葉にしたことがあった。

長男の父親に対する思いが様々にあり、それを私に言葉にすることはほとんどないけれど、彼の方法で、必死に受け止めようとしているんだろう。長男の悲しみがあり、その癒し方も異なるんだと、思った。

 

 

新しい高校へ通い始めるけれど、順調とは程遠い、新生活だった。

「こんなことして何になる」

「こんなはずじゃなかった」

「全部、捨ててしまった。何も残っていない」

長男だけでなく私自身も将来に不安を感じていたし、彼が死を選ぶのではないかと怖かった。

毎日があまりに苦しくて、もう何もかも嫌になって、毎晩のようにベッドの中で、ぐずぐず泣いてしまい、そっと横に来るチョコに慰めてもらっていた。

(チョコにベッドを占領され、私は布団を掛けられない…)

 

 

チョコ

そのせいか、次男も順調に登校していたが、休みがちになった。

ほんの一瞬にして、日常が壊れてしまう怖さ、不安が強くなっていた。長男も次男も学校に行けない、私は定職に就けず、そのうちに経済的に困窮することは目に見えている。このまま私達家族はどうなるんだろう。長男が自ら死を選んでしまったら、どうしよう。

未来に希望を持てなかった。未来を思うだけでつらかったし、怖かった。

 

このころに書いた文書。

「こんなにも苦しいのは、どうしてなんだろう。誰か助けてくれるのか?誰が助けてくれるのか、どうやって?そんな方法があるのだろうか。

因果応報、これほどまでに、私を苦しめる言葉はないだろう。彼が死んだのは、私の何かが生んだ結果なのだろうか。今、私が苦しむのは、何かが生んだ結果なのだろうか。あの時、何かしていたら、あの時、こうしていたら、思いを巡らせてみても、決して答えはでない、見つかるはずのない、問いをただ繰り返す。時は戻るはずもなく、彼が戻るはずもない。

私が生きてきた41年が生んだ、ものなのか。私の責任なのか。私が背負うべきものなのか、応える者はどこにもいない。もがけばもがくほど、沈んで動けなくなる。まるで泥の沼の沈んでいくようだ。冷たく、苦しく、暗い、そこのない沼に私は胸まで浸かっている。

「誰か助けて、苦しい」

長男の言葉を耳にすることがつらかった、絞り出すような言葉は、彼の苦しみの深さを思わせる。代わることは出来ず、軽くすることもできない。因果応報、彼の人生に、どんな原因があるというのだろうか。彼が一体何をしたというのだろうか、どうして彼はこんなにも苦しまねばならないのか。どうして、どうして。決して答えを得ることのできない問いを私は繰り返す。一体私たち家族が、何をしたというのだろうか。当たり前のことができず、当たり前の日常を得ることができない。」

 

 

その10日くらい後の文書

「「ベランダから飛び降りたい」「もう、つかれた」「用意してもらっても食べれない。それがまた苦しい」「もう、治らない」「治る気がしないんじゃない、もう治らない」「つらい。しんどい」「一度崩れたお城の上にもう一度お城は建てられない」

今日は気分の落ち込みが、いっそうひどい。カウンセリングを勧めても、「誰にも話したくない。話も聞きたくない」「薬飲んで、治るの?ほかに方法はないの?」「一週間学校を休んだだけで崩れた」彼は食べることを拒み、飲むことを拒む。生きることを拒み。苦しんでいる。

ちくしょう。悔しいよ。何もできない自分に、腹が立つ。どうして、私は何もできなんだ。彼の力になれないんだ。彼に安らぎを与えてあげられないんだ、どうして。どうして。彼に課せられたものが、あまりに大きく、彼の苦しみが大きく、私はただ、みていることしかできず、この境遇を嘆くことしかできない。あぁ、誰か助けて。彼を助けて、私を助けて。」冷たい沼に落ちて、出れなくて、ただ、もがき、そして、さらに埋まっていく。

そんな思いで毎日を過ごしていた。

 

「苦しいよ」「誰か助けて」そんな言葉を声に出すこともできなかった。どこに出していいのかも、誰に出していいのかもわからなかった。『自己責任と自助規範』自分が蒔いた種だから、自分で何とかしなくてはならない。人に迷惑をかけてはいけないと思っていた。

そして、『嫉妬』ほかのお母さんたちがうらやましかった。「全然、勉強しない」「食べたら食べっぱなし」「部活の洗濯が大変」「言うことを聞かない」そんなほかのお母さんたちの会話。子供が学校に行き、部活をして、食事をする。自分の意見を持ち、主張をすることがうらやましかった。本当にうらやましかった。妬ましかった。でもそれは、かつて私の、私達家族の手の中にあったもので、当然と思っていて、私も同じように話していたことだ。

私達家族が失ったもの、当たり前に、思っていたものが、きらきらとして眩しかった。

 

 

 

 

その後の歩み ⑤

2021年07月10日ブログ,臓器提供とその後

 

 

私は自宅に戻ることをあきらめた。

定期的に草引きをしたり、風を通したり、荷物の整理をしたりと、家の手入れをしていたけれど、それは非常に苦しいものだった。彼と過ごした日々を思うことが、つらかったし、苦しいだけじゃなく、楽しい思い出もたくさんあったはずなのに、それを思うことができず、住めないことがつらかった。

また、どんどん家が荒れていくことが悲しかった。

 

 

そして、理由はそれだけではなかった。

私自身、近所の人たちに、特に親しくしていた人はいなかったが、それなりに付き合いはしていた。

「急にいなくなったね」「ご主人がなくなったみたいよ、自殺だったんだって」

そんな会話が聞こえてくるようだった。その言葉を実際に聞いたわけではないし、そう言われていたとしても、悪意などなく、ただの言葉だとしても、つらかった。そして、あの日にたくさんの人が集まっていたことを思いだしてしまい、何でもないふりして、住むことは、できなかった。

やはり思うのだ、自殺でなければ、自宅に住むことができたのだろうか、事故や病気なら、世間体など気にすることなく、いられたのだろうか。

私は誰かに責められたわけでも、指さして笑われたわけでもない。私が反対の立場でも、責めたり、笑ったりはしないだろう、それでも、住むことはできなかった。そして、住めない自分を責めてしまっていた。

 

生活していくために運び出した荷物はごくわずかだったけれど、特に問題なく生活することができていた。自宅を手放すと決めた時、自宅に残していた、たくさんの思いでのつまったものたちを私は全部、捨ててしまった。

何もかも、捨ててしまった。その痛みは、今思い出しても、苦しくなる。物を捨てる苦しさを知っているから、私は今、あまり物を持つことができない。

自宅は今、人手に渡った。

その近くを今もまだ、通ることさえできずにいる。

 

 

 

 

悲しみや苦しみは私の中にきちんと納まっていることもあれば、大きくあふれ出し、どうにもならないこともあった。

このころ、ひどく気分が落ち込んでいて、夫の眠る寺社に1人で向かい、納骨堂の前で泣いていたことをよく覚えている。

「どうしてもっと、優しくできなかったんだろう」

「私と知り合うことがなければ、こんなに彼には違う人生があったのではないだろうか」

彼と出会ったことさえも、つらかった。

自分自身が生まれてきたことさえも、悲しかった。

隣の芝生は青く見えるという言葉のように、友人や知人が持っているもので、私の失ったものが、ひどくうらやましかった。

そんなことを思っても仕方ないとわかっていても、思ってしまうことが苦しかった。

あふれ出した思いをコントロールすることができず、飲み込まれ、もがき、ただ泣くしかできなかった。

空が、いつも晴天ではいられないように、雨の日もあれば、曇りの日もあり、そして嵐の時もある。自分の心でありながら、コントロールできないことを、仕方のないことと受け入れていたけれど、これからもずっと、こんな風にして生きていくことが、悲しかった。

 

とにかく、食事をとること、眠ること、チョコの散歩に出ること、そして、仕事に行くこと、毎日の生活のリズムを整えることに気を付けて、その思いが通り過ぎていくことを待つしかなかった。

チョコ

 

そんな毎日の中で、思いついて勢いだけで編入学した通信制大学ではあったが、学びは私の中で、日常となり、そして私にたくさんのことを教えてくれた。

社会の中の家族の変化、悲嘆の癒しにくい現状、そして自死遺族について。

その教材をショッピングモールのフードコートで読んで、泣いてしまった。

 

私が彼の死を偽ることができないこと、彼を殺したと思うこと、苦しいこと、社会のまなざしのこと、そのすべてが私だけの思いではなく、自死遺族の苦しみであることを知った。

そして、自死遺族の抱える問題、社会を変えていこうとしている人がいることを知った。

私の苦しみが軽くなることはなくても、その思いを置いておく場所をみつけられたように感じた。

 

 

 

友人にばったりと出会ったり、久しぶりに連絡があったりして、「久しぶりにご飯でも行こう」という話になると、私は断ることができずにいた。

「今なにしてるの?」そんな近況報告になることがわかっているのに。

そして、「自殺したんだ」と伝えて、私はまた友人を傷つけてしまうのだ。その後に、「悲しいことだけじゃないの」という思いをこめて、「臓器提供したんだ」そう言うと、友人は「えっ」と言葉を失う。私の思っている反応とは程遠く、友人は困惑し、私にかける言葉を探して、視線をさまよわせ、結局かける言葉を見つけられない。そんな友人を私は見かねて、言葉をかける。「だから今もどこかで生きているんだよ」と。そう言っても、友人はどこか釈然としない様子であるけれど、私はさらに言葉を重ねることはしないで、別の話題へと話を変える。

そんなことを何度か繰り返し、ひとりの友人から、「いくらかもらえるんでしょ」そう言われた時、もう言葉にしなくなった。私たちの家族の決断が、穢されたように感じて、ひどく傷ついてしまった。

社会の中で臓器提供、移植医療に対する理解のなさを痛感した。

「いいことをしたな」そう思っているのは、私だけだった。

厚生労働大臣から賞状をもらっても、移植を受けた人、移植に関わる医療関係者から褒められても、社会の誰からも認められないことだと知った。

そして、夫の職場の消防(医療関係者)の人でさえ、脳死に対する理解がなかったことを思いだした。

私自身、20年ほど医療従事者として医療に携わりながら、臓器提供はどこかメディアの中のこと、教科書の中のことであったし、脳死の意味はわかっていたけれども、臓器提供をする場合にのみ、脳死が人の死となること、コーディネーターという職種がいることなど、知らないことも多かった。何より、臓器提供に至る経緯が異なること、ドナー家族がさまざまな思いを抱え決断することなど、全く知らなかった。

 

ある日、図書館で「臓器移植」の文字をみつけ、その書籍を手に取り、何も考えずに読んだ。

2011年に発行された書籍だった。「脳死は人の死ではない」と書かれ、臓器提供したドナー家族の後悔がつづられていた。これが社会の臓器移植に対する認識なのだと知った。友人たちが困惑し、私にかける言葉をみつけられないのも当然だと思った。だって私は彼を殺したことになるのだから。

内容に対する真偽はともかくとして、「脳死は人の死ではない」とする書籍が一般の人が使用する図書館にあるということは事実だ。

それから、臓器提供、移植医療についての書籍をいくつか手に取った。

「臓器提供者」米山公啓 1999年 双葉社

「生命倫理とは何か」市野川容孝/編 2002年 平凡社

「わたしを離さないで」カズオ・イシグロ 2008年 早川書房

「いのちの選択」小松美彦 2010年 岩波書店

「Co命を手渡す者」秦健日子 2011年 河出書房新社

「アハメド君のいのちのリレー」2011年 鎌田實 集英社

「切り裂きジャックの告白」中山七里 2013年 角川書店

「人魚の眠る家」東野圭吾 2015年 幻冬舎

小説は作り話で、現実味がないのは当たりまえだけれど、フィクションの要素が強く、SFと表現している書籍もあった。移植医療はそれほどまでにどこか遠い話題なのだろうか。

社会の中で、移植医療はどこか遠くの出来事で、人によっては「脳死は人の死ではない」と考えている人もいることを知った。私が「夫は臓器提供したんですよ」と伝え、「脳死は人の死ではない」と言われれば、きっと後悔するようになる。誰かに私の決断を否定されたくない、もう言葉にすることはやめておこう。

そう思った。

 

 

 

次男は学校の長期欠席が続き、スクールカウンセラーとの面談に通っていた。このころには次男の家事の能力、とくに料理のスキルは非常に高くなっていた。レシピがあれば、たいていの料理はできるようになっていて、魚を三枚におろしたり、揚げ物をしたり、料理のバリエーションも豊富だ。

このころのことを、次男は今「もう人生終わった」と思っていたと言う。

そんな中で、学期のはじめ、私は次男に登校を強く勧めた。ここしかないと思った。「頑張れ、一日は無理でも途中で帰ってきていいから、朝おきて、学校に行こう」そう言って、欠席という選択肢を与えなかった。

本当にこれでいいのか、酷なことをしているんだろう、でも頑張ってほしい、いろんな思いを抱きながら、次男を送り出していた。

一月には、インフルエンザのため学級閉鎖があり、その後、次男自身がインフルエンザに罹り、欠席をしたけれど、二月、三月と登校することができた。

関わりたくないと思う同級生がわざわざ来て「どうして学校に来てなかったの?」と聞かれることが本当に嫌だから、誰からも話しかけられないように「本を読んでる」そう言っていた。

教室に自分の居場所がないこと、授業に全くついていけないこと、それがどんなにつらいことが想像することしかできなかったけれど、「大丈夫」そう信じていた。信じるしかなかった。

 

四月の新学期、次男は進級し、担任の先生、クラスが変わってからも、順調に登校することができていた。

本の趣味があうクラスメイトをみつけ、自分の居場所を見つけることができたようだった。

そして、修学旅行から帰ってきた次男の、満面の笑みを見た時には、少し泣きそうになってしまった。

「楽しかった」そう言って、クラスメイトの様子を話す次男は、本当にうれしそうで、もう大丈夫と思えた。

 

 

 

 

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くすのきの会 代表米山 順子

くすのきの会 代表
米山 順子

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1999年医療系短大卒業、看護師として総合病院や社会福祉協議会などに勤務しながら、私生活では結婚、二児の母となる。 数年前に夫がドナーとなり、ドナー家族となる。通信制大学に編入し、学びを深め、社会の変化による悲嘆の癒しにくい現状、日本の移植医療、ドナー家族の現状を知り、臓器移植ドナー家族の会の設立に至る。

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